
二村が死んだ。
無期懲役の判決が下って収監されてから、三十年になる。死因は癌だというがもう九十歳を超えており、晩年は寝たきりだったらしい。
私はその話を、かつての部下から聞いた。新米だった頃に張り込みや聞き込みのイロハを手取り足取り鍛えてやった男だ。頼りないヒヨッコという印象しかなかったが、堂々たる禿げ頭を輝かせて定年退職の挨拶に来た。なるほど私も年をとるわけだ。
もはや二村がどんな顔をしていたかすら曖昧になっていたが、その名を聞くと当時の思いがまざまざとよみがえってきた。あの事件――私の刑事人生の中で凄惨な事件は多く経験してきたが、あれほど迷った事件はなかった。決して忘れたわけではなかったのだと思い知る。あのとき私がとるべき道がほかにあったのか――答えが出せないまま記憶の片隅に追いやり、ただ時を重ねただけだ。
気がつけば、事件のあった島へ向かっていた。
その家は、小島の岩壁の上に海に向かって立っていた。
当時は、鄙(ひな)びたこのあたりには珍しい白い壁の瀟洒(しょうしゃ)なコテージだったが、今は潮と風雨にさらされ見る影もない。窓ガラスはほとんどが破れ、残っているものも潮で真っ白に曇っていた。外壁は黒ずみ、あちこちに大きな亀裂が目立つ。庭の芝生は跡形もなく、名も知れぬ雑草が繁茂していた。
私はゆっくりと視線を巡らせ、今来た道を振り返った。
周囲の海には、ほとんど岩礁と変わりないものから家の建てられる大きさのものまで、たくさんの小島が点在していた。今いるこの島からは長い砂州が伸びて陸地と繋がり、歩いて渡れるようになっている。対岸には狭い平地にへばりつくように民家が密集していた。
高台に、一軒だけ飛び抜けて大きな屋敷がある。昔はこの一帯の地主だったが、三十年前のあの頃にはもうその役割は持っていなかった。それでもこのあたりでは一目置かれる家柄で、このコテージの持ち主でもある。だが遠目にも荒れが目立ち、廃屋となって久しいことが知れた。主がどうなったのか分からないが、母屋があの様子では離れ家にまでとても手が回るまい。
潮風が急に強くなった。無意識にポケットに手を入れると、底深くにおさめた小袋に指が触れた。
三十年前にこの島で拾ったもの。私を長く迷わせてきたもの。小さな固い――海から来た、もの。
二村の話が、昨日のことのように脳裏に浮かんできた。
*
「あの日コテージで何をしていた?」
薄暗い取調室で、スチールの机を挟んで、私と二村は向かい合っていた。
「仕事です」
二村がぼそぼそと答える。
「掃除をして、窓を拭いて、修理のいるところを直して、天水桶の水を消毒して」
「それはもう聞いた」
私は二村の、ぼさぼさのごま塩頭を見下ろした。終始うつむき通しの顔はよく見えない。ただ、色あせた作業服の膝に置いた手の、黄ばんだ爪と、無数のしみと、なめし革のような皺だけが目に入る。
「その仕事はいつも日暮れまでに終わらせるだろう。あの日に限って夜までいたのはなんでだ?」
「天気が崩れると予報で言ってたんで。やることが多くて」
「日が暮れたら潮が満ちて砂洲が渡れなくなることは知ってただろう」
「はあ」
「なんで子供を帰さなかった?」
「嬢ちゃんが島に来てるなんて知らなかったんで」
何度聞いても、その繰り返しだった。
二村は土地の者ではなかった。どのようないきさつかは分からないが、地主に拾われ、離れの管理人として働いていた。無口で愛想のないよそ者は屋敷の使用人の誰とも親しくはなかった。ただ毎日、黙々と無人の離れの手入れをしていた。離れは主が妻のために建てたものだが、その妻は精神を病んでいたらしく、数年前に「海が呼ぶ。帰ります」と謎めいた遺書を残し入水している。遺体は見つかっていないが、周辺の波の荒さや水深から生存は絶望視されていた。
無人の離れを訪れる者が、実は二村のほかにもう一人いた。当時十歳だった、主の娘の千尋だ。
父親から提供されて千尋の写真を見たが、印象的な少女だった。
美しいというのとも、年相応のかわいらしさというのとも違う。青白い顔をした、強いていえば月のような無機的な感じのする顔だった。顔に垂れかかる長い髪が顔に影を落とし、少女の硬い表情をいっそう陰鬱に見せていた。
そして最も目を引くのは少女の髪だった。深い深い黒――ほとんど緑ともいえるような変わった色をしていた。
「しかしあの子はしょっちゅうここへ来てたらしいじゃないか」
「はあ」
「学校を休んで」
「はあ」
「来たら話くらいはしていたんだろう? ん?」
二村は口をつぐんで目を伏せた。
主は妻の自死が受け入れられなかったのか、家では誰にも一切妻の話を許さなかったという。娘が離れへ行くのも禁じていた。娘が母を慕って離れへ来ることを、気づかなかったのではない。二村が見て見ぬふりをしていたのはあきらかだ。コテージはたった二間で、あとは小さな庭しかない。
「日が落ちてもおまえさんは戻らなかった。少女も帰らせなかった。だからあの夜何があったのかと聞いている」
その夜、予報に反し島の天気は強めの風が吹いただけでさほど荒れなかった。翌朝二村は対岸に戻ってきたが、千尋の行方は不明のままだ。千尋の履いていた靴だけが庭で見つかった。
二村は何も語らない。
*
気がつくとまた風が強くなっていた。
空が灰色に変わり、水平線のあたりが白く靄(もや)っている。待つほどもなく、風に水滴が混ざりだした。それほど長い間もの思いにふけっていたつもりはなかったが、いつの間にか天気が崩れてきたようだ。
満潮の時間にはまだ早いが、海が荒れる前に戻った方がいいだろう。
いったい私ははるばる何をしに来たんだと自嘲しながら、コテージの廃墟を後にする。岬の坂道を海岸まで降りてみたものの、砂洲が見つからなかった。
場所の見当はついているつもりだった。対岸に集落も見えている。
だが、ここと思った場所を何度往復しても、一面に波ばかりだった。いぶかりながら海岸をうろついているうちに、来たときよりも波が高くなっていることに気がついた。
これは天候が回復するまで砂洲を渡れそうにない。だがそれまでに満潮になったら? 次の満潮は日没後としか記憶していない。日暮れより前に戻ればいいと軽く考えていた。
私は諦めて、もう一度坂道を上った。しばらくあの離れで過ごすしかあるまい。廃墟でも風雨くらいはしのげるだろう。私有地である建物内に入るのはためらわれるが仕方がない。
蝶番の外れたドアを押して中に入ると、部屋の中は当時のままの調度が残されていた。もちろん埃と黴に覆われてすっかり変色しているが、ソファも絨毯もあの頃のものだ。
庭に面したフランス窓など、ガラスこそ失われているがカーテンまで残っている。吹き流しのように裂けたレースが風にあおられてばたばたと翻っていた。
窓の向こうは小さな庭、そして海へ落ち込む崖だ。
千尋の靴は、まるで海へ向かって駆けていったように、転々と芝生の上に落ちていたのだった。
*
千尋の遺体が見つかったのは、行方不明になってから十日後のことだった。
コテージの下の崖に打ち上げられていたが、十日間波にもまれていたことを差し引いても、目を背けたくなるような状態だった。頭部はなく、首から下は喉もとから腹まで大きく切り裂かれていた。体の中には内臓も骨もなかった。
臓器はあるいは、海の生物に食われたのかも知れない。だが傷口は鋭利で、その形状から動物咬傷とは考えられなかった。
少女の行方不明事件は、猟奇殺人事件へと様相を変えた。当然、二村への追求もそれに即したものになる。
「そうですかぁ……見つかってしまいましたかぁ……」
遺体発見のことを告げると、それまでだんまりを決め込んでいた二村はようやく口を開いた。
「奥様が見つからなかったので嬢ちゃんもと思ったんですがねえ……そうですか……上がってしまいましたかぁ……」
その言葉を聞いたとき一瞬背筋がひやりとした。自殺したという千尋の母親も、実はこの男が殺したのではと思ったのだ。
雇い主の二村に対する扱いは、けっしてよいものではなかった。恨みがあったのかと水を向けてみると、二村は静かな表情で、すべてを諦めたようにかぶりを振った。
「そんなんじゃないです。あの日の夕方、あたしは嬢ちゃんも一緒に連れて帰るつもりでした。だけど嬢ちゃんは、今夜は奥様が迎えに来るのを待ってるんだ、一緒に海へ帰るんだと言いなすった。何をばかなと思いましたが、嬢ちゃん一人置いてまさかあたしだけ帰るわけにもいきません。それで残ってたんです。まさかあんなものを見せてもらえるとは思いませんでした」
二村はうっとりと、夢を思い出すような目になって言った。
「あれはそれはもう、きれえな――きれえな眺めでした……」
……中天の満月が冴えた白い光を一面に投げかけていた。海は濃紺に輝き、波が月の影を無数の光の縞に引き裂いている。
波のただ中を、細く長い影がゆっくりとうねりながら跳ねていた。黒いシルエットの表面が時折、月光を反射してきらりきらりと青白く光る。
巨大な蛇だった。銀青色の海蛇が水の上を滑るように渡っているのだった。
その異様で美しい様子に声を失っているうちに、海蛇は崖のすぐ近くまでやってきた。波の間ですっくと立ち上がり、こちらに呼びかけるように頭を高く持ち上げる。
――お母さんだ!
窓のそばにいた千尋が、顔を輝かせて庭に走り出た。一歩足を出すごとに靴が脱げ、走ったあとに転々と裏返って残る。
ぼんやりと見とれていたが、すぐに千尋がまっすぐ崖に向かっていることに気がついてひやりとした。
慌てて後を追う。崖のぎりぎり手前で、ようやく細い腕を捕まえた。
千尋はあばれるでもなく立ち止まり、ゆっくりと振り返った。そしてそれまでついぞ目にしたことのなかった笑顔を向けた。
――今までありがと。さよなら。
小さな体が、手の中でずるりとやわらいだ。次の瞬間には、千尋の体が喉元から縦にぱっくりと裂けるのが見えた。
生臭く真っ赤な血が迸(ほとばし)る――と思った。しかし裂け目から吹き出したのは銀色の微細な粒子だった。服が裂け体が裂け、まるで蛇の抜け殻のように首から下がくたくたとくずおれる。
銀色の粒子は一筋の帯になって空へ駆け上がると、そのまま鋭い弧を描いて、海上で待つ海蛇の元へ落ちていった。
崖の下で水音が聞こえた。
月の光が一瞬、ふっと翳(かげ)る。再び明るさが戻ったときには、はるか沖を二筋の銀色の光が、水平線に向かって遠ざかっていくのがかすかに見分けられただけだった。
夜明けの光が差し始めるころになってようやく、動くことができた。手の中に残ったものを崖から海へ投げ捨てた。抜け殻はもう必要なかったから。……
二村の話はそのようなものだった。
語りはずっとつたなく朴訥としたものであったが、私はまるで、自分で目にしたかのようにその光景を思い描くことができた。
同じ取調室にいた若い同僚は、そのときの二村を狂人だと思ったと言った。確かにその供述はあまりに荒唐無稽だった。
だが不思議なことに、私は二村が妄想にとらわれているとは思えなかった。長く容疑者と接していると、刑事の直感のようなものが働くことがある。すべて信じられるわけではないが、あながち見当外れとも言いきれない。そのとき私が二村の笑みに感じ取ったのは、哀しみ、寂しさ――そんなようなものだった。二村は真実を語っていると、なぜか信じられた。
*
日が暮れてきた。
雨はとうに収まっていたが、まだ風は強く、しかも満潮にぶつかってしまった。あと何時間かは島に足止めだ。
空には月が煌々と輝いている。まるで、二村が語ったあの夜に放り込まれたようだ。暗い海の向こうに、銀色の海蛇が見えるような気さえした。
あの供述の後、二村は何度かの精神鑑定を受けたが、結局有罪の判決を受け服役した。控訴もしなかったのは、おそらく身寄りもない初老の二村には行く先もなかったからだろう。千尋の父親は、娘を殺した犯人をけっして許しはしなかっただろうから。
そんな二村を私は何もせずに見送った。否、私に何ができただろうか。病んだ母親と厳格な父親に翻弄された孤独な少女はあり得ない夢想を抱き、それにつけ込んだ男に殺されたのだ。ほかにどう考えようがある。
よりどころとなるのは何の証拠もない勘と、何の証拠にもならないだろう、この……。
私はポケットから小袋を取り出し、その中身を掌で受けた。
三十年前にこの島で拾い、そのままずっとしまい込んでいたものだ。
青緑色に透き通った、人の掌ほどの大きさの、ガラス片のような、鱗。魚のものにしては大きすぎ、硬すぎる鱗。
そのとき急な風が吹き、私の掌から鱗を奪い去った。一瞬の出来事だった。
反射的に追いかけようとして、私はふと思いとどまった。
二村はもういない。あれを残しておいて何になる。
鱗は水晶のようなきらめきを残しながら、夜空をどこへともなく飛び去っていった。私は長い間、波の音を聞きながらそれを見送っていた。
〈了〉
