「フランスの国有化の怪しい波紋」服部伸六

フランスの国有化の怪しい波紋

服部伸六
(詩人、評論家、元在モロッコ日本大使館参事官・塾員)

     難航する国有化
 フランス社会党政府が用意した企業・銀行の国有化法案は、10月の末、議会で採択され、いよいよ実施の段階へ一歩み出したが、たまたまパリバ事件と呼ばれる騒ぎがおこったり、資産の国外流出が明るみに出るなど、経済政策にかげりがみえはじめている。西欧の中心を自負するフランスに突然浮上した社会主義政権が直面する問題が、どういうものなのか、パリバ事件を中心として書いてみることにする。
 フランスの国有化政策については、わが国でも新聞などの報道で紹介されているので、詳細はさけるが、国有化はフランス人大衆のあいだではさほど拒否反応を起こしてはいないようにみえる。金持ちと貧乏人のあいだの格差が大きいフランス社会では、独占的な大企業が国有化されることは、一般民衆にとってはむしろ歓迎されることなのである。まして民間の企業家が、ドイツとの国境近くにある鉄鋼業の場合のように、設備の更新を怠け生産性の向上をネグっていたため、国境の向かい側の西ドイツの同業者との比較でみて、明らかに遅れをとっている例にみられるように、民間にまかせておいたのではフランスの地盤沈下はますます救いがたくなるであろうという危機感がある。こういう沈滞から脱出しようという願いが、「変革」を掲げる社会党の勝利につながったことを考えれば、国家のテコ入れによって経済の躍進をはかるという政府の意図は一般の人びとの共感を得やすいものであっただろう。
 フランス経団連会長のフランソワ・セイラックその人さえ、「鉄鋼業に限っていえば、国有化は絶対に必要だ」と、いっているくらいである。
 それに今までに国有化されたものは大体においてうまく行っている。早くから国営となっているフランス国鉄 (SNCF) は経営の方も駅の無人化などを行ってうまく行っており、先端技術の開発にも進歩をとげて、最近はスピードを時速260キロという世界一の超高速車を走らせるようになった。二年後には360キロにまで早くするのだと、誇っている。去る9月23日には、この列車のパリ=リヨン間の運行が行われて、それにミッテラン大統領が試乗するという華やかなショーまで繰りひろげられた。もちろんこの開発は前大統領のときからなされていたものだから何もミッテラン政権の手柄ではないのだが、ちょうどタイミングよく国有化推進のキャンペーンにつながったようなものとなった。
 わたしはちょうどそのころパリに滞在していたので、マスコミに出された記事や広告に眼をみはったものであるが、ある新聞は、ミッテランがこの試乗に当たってリヨンを素どおりしたと言って市民が怒っているという記事を書いていた。この抗議に社会党の幹部は、それはスケジュールの都合でたまたまそうなっただけで、去る選挙の際のリヨンの投票が、ミッテランに少なかったからではないと弁解しているのをみて、フランスでも日本と同じようなことがあるものだと苦笑した次第だった。また共産党出身の運輸大臣が各駅で演説をぶっている姿などの写真が掲載されていたが、これなど共産党員の多い国鉄職員のことを考えると、このキャンペーンが政治的な目標をきめて行われている事情がのみ込めたのである。
 ルノオ自動車についても同じようなキャンペーンがなされていた。この会社は、アメリカからの買収攻勢に対抗してドゴール将軍の時代に国有化されたものであるが、新しくルノオ9という新車を発表して、世界の最先端を行くメカニズムが取りつけてあるとの宣伝が行われたが、これも見方によれば国有化政策キャンペーンの一翼を担ったものと受けとることができるはずだった。というのは、この前後から議会で国有化法案の審議が開始されていて、大蔵大臣のジャック・ドロールなど、社会党のこの政策はドゴールのはじめたものの継続にすぎないというような説明を行っていたことを見ても、なるほどとうなずけるものだった。
 フランスの企業・銀行の国有化のねらいは、無国籍企業などの外国資本に対抗してフランス経済を浮揚させ振興させるためであると、ミッテラン大統領は9月24日の初の記者会談で強調して、フランス国内の内需をフランス民族産業の手中におさめることが肝要だと説いていた。
 「わが国の国内市場を再征服せねばならないのです。鉄鋼、アルミニウム、情報産業の分野で勝たねばならないのです。工作機械、集積回路など、とくにマイクロコンピューター、マイクロ・プロセッサー産業の分野を盛んにせねばならないのです。私はパリに先進技術のセンターをつくり、世界の人がパリに集まるようにしたいと考えているのです········」と、その演説のなかにのべていたが、これは明らかに日本をその射程に入れての発言であると、わたしは考えたものだった。
 この国有化が、ミッテランが繰り返し言明しているように、株の、ということは資産の国有化、つまり私有を公有に切り変えることはしても、その経営は今までどおりの経営陣にまかせることに変わりはないと、現実との妥協を保証してはいるものの、経済界の不安と疑惑は消すことはむつかしいようである。その証拠にカネの国外逃避は5月10日のミッテランの勝利の前後からはじまっているし、とくに銀行界では反対の空気が濃厚である。米国のベッカー銀行は、フランス最大の金融団であるパリバ銀行が出資している銀行であるが、その頭取は「われわれは外国の国家を共同経営者と考えるわけには行かぬ」と、早くも反対の声を上げていたものだが、その声は、今回発生した「パリバ事件」によって現実となることになった。そしてミッテラン政権の最大の難問が国有化事業にあることを明らかにしたのである。

     パリバ事件
 ミッテランがエリゼー宮に入り、六月に国会議員選挙があって、社会党が単独で議会の過半数を占めることになってから、7月8月と、フランス語でいわゆる「Etat de Gráce」といわれる猶予期間を経てから9月に入ると地方自治改革法案をはじめとして社会党が選挙公約した改革案が出揃って来て、各界で論議が湧き出るようになったが、その一つの改革案である国有化法案も、論議が重ねられ、最後のつめが重ねられていたとき、銀行国有化案のなかで最も話題になったのが、ピエール・ムーサ会長の率いるパリバ金融グループだった。
 この金融団はサウディ・アラビアから南米のリオデジャネイロに至る諸外国に400の銀行ないし投資銀行をもっていて――もちろん東京にも支店がある――、100万人がその下で働いているといわれる超大型の多国籍企業体である。その本拠はパリのビジネスの中心地ダンタン街にあって、正式の名称を Banque de Paris et des Pays-Bas というフランス国籍の銀行で、その名の示すとおり、オランダをはじめとするベルギー、スイスの民間資金によって成立している会社である。その営業成績では世界で21位であるが、その収益高ではフランス第一で、世界では9番といわれている。そしてこのトップに坐っているのがピエール・ムーサというエジプト人を父にもつ人物なのである。
 9月になって銀行の国有化法案が政府のトップのあいだで審議されはじめた時点で、パリバ銀行も国有化のリストに載っていることを知ったムーサの動きがおかしくなって来た。10月5日にパリバはそのスイスにある子会社のパリバ・スイスの株の20%を、ベルギーにある子会社のコベパに売り、同7日になるとパリバはそのコベパにある持ち株をパリバ・スイスに売った。こういう操作は偽装工作だったのであるが、そのことは9日になって判明することになった。スイスにあるパルジュサという投資銀行がパリバ・スイスに公開買い付け (TOB、フランス語ではO・P・Eという) をかけてきたからである。しかも、その買値がおかしいのだ。というのはフランス社会党政府はパリバ全体に対して36億フラン (約1400億円) という値をつけて国有化しようというのに、その全体のなかで12%を占める子会社にすぎないこの子会社を23億フランで買い付けようとしたからである。
 ムーサは早速その日に大蔵大臣のジャック・ドロールにこのことを報告して、「私はこの行為を止めさせるよう全力をあげましょう」と大臣に約束し、12日には文書でこれを確約したといわれる。ムーサに悪意があってのことだと信じられてはいないものの、結果からみると、彼は二重人格を演じて政府をたぶらかしたことになった。というのは、スイスの子会社もベルギーの子会社も外国人のコントロールの下にあるからムーサのいう通りにはならぬことは明らかである。が、それにしても、TOBをかけたパルジュサの動きが怪しいのだ。パルジュサというのは、これまでは目立たぬ小会社にすぎなかったものが、米国の銀行やベルギーの鉄鋼会社、それにカナダの金融グループの参加を得て、俄かに増資をはかり、一日のうちに12倍も大きくなったという。しかも、これらの増資参加がいずれもムーサの古くからの友人たちであったというのである。
 このことが、10月の末ひらかれていた社会党のヴァランス会議で報告されて、スキャンダルとなることになった。このことを知ったムーサの前任者で今ではパリバ・グループの名誉会長をつとめているジャック・ド・フーシエは、政府に嘘をついて来たムーサに辞任を迫った。ムーサはこの時点でもなお事態の立て直しに希望をつないでいたが、結局ドロール蔵相の拒否に会って身を引かざるを得なくなった。
 ムーサは、フランス流の社会主義と国際資本主義とを両立させることができるのではないか、と最後の瞬間まで考えていたことが、彼の命とりとなったのである、と経済専門家は言う。どうやら、フランス国内では国有化されても、海外のパリバ・インターナショナルの20%ぐらいをフランス政府に参加させることにすればパリバ王国の健在をはかることができるのではないか、とムーサは観測していたらしい。が、結局は板ばさみになって動きがとれなくなり失脚したというわけであろう。そこでこの事情をのみこむためにはピエール・ムーサという男の経歴を調べてみる必要がありそうだ。

     ピエール・ムーサという男
 ピエール・ムーサは、エジプト人の学校教師を父として、フランス人の産婆さんを母にリヨンに生まれている。ムーサというのは父方の姓である。おそらくこの父は今世紀のはじめエジプトから移民としてフランスへ渡った人であろうと思われるが、ひょっとしたら、ユダヤ人の血をひいた人ではないかと、わたしは疑っている。というのは北アフリカには古くユダヤ人が多数移住しているからである。わたしが住んでいたことのあるモロッコには、1973年の中東戦争以前には30万人のユダヤ人がいたということであるが、この戦争を機にアラブ世界に巻き起こったイスラエル・ボイコットの気運の盛り上がりに、身の安全を気づかったユダヤ人たちはヨーロッパへ向けて移住し、その後は5万人程度に減ったということだ。モロッコのハッサン国王は、アラブの連帯には余り共感を示さない人であるので、そのころユダヤ人に帰って来てくれと、談話を発表していたものだ。ユダヤ人の能力は国にとって必要である、という主旨からだった。モロッコ以外の北アフリカの国でも、事情は同じだったろうと想像される。  
 ムーサがユダヤ人ではないかという証拠はどこにも見つけることはできない。わたしひとりの憶測である。しかしフランスでは、何か具合の悪いことでもあるのか、ユダヤ人であることがはっきり解っている人についても、ユダヤ人としてその出自がうんぬんされている話はあまり聞かない。ユダヤ・キリスト教の伝統を知らないわれわれ東洋人には窺い知れない機微があるのかも知れない。
 ムーサはパリのエコール・ノルマル・シュペリウール校という秀才校を出ると、はじめ文学者になるつもりであったらしいが、戦後間もなく方向転換をはかり、財務監察官の試験をうけて合格、官界に入ることになる。
 官界での彼は、主として海外領土省内で社会党の大臣の下で仕事をしている。とくにマンデス・フランス首相の下で海外領土大臣のフランス政府の官房員として働いている。フランス政府のなかの大臣官房というのは、日本とちがって極めて政治的な色彩が強く、大臣が進退するときは官房員全体をひきつれて行動することが珍しくない。そういうわけでムーサはそのころ、政治的な人脈を築いていたらしいことは、のちの彼の出世と関係がありそうだ。
 そのころムーサはアフリカ問題を研究して「プロレタリヤ諸国民」(Nations prolétaires) という著書を書いているが、この本はかなり評判になった本で、そのころアフリカ経済を勉強したわたしの記憶にも残っている。
 1962年40歳のとき彼は、そのアフリカ研究の実績を買われて、そのころできたばかりの世界銀行へ出向してアフリカ局長に就任している。世界的な視野からアフリカや第三世界をみる眼が養われたのはそのときであろう。この時の経験が後年パリバ銀行のボスになったとき役立つことになるのである。
 三年間の世界銀行ぐらしののち、帰国したムーサは保険業界に入るが、そのころパリバ銀行の会長であったジャック・ド・フーシエに引き抜かれて副社長に就任する。そのころからフーシエ会長は秘かに自分の後継者にすることを考えていたということである。というのは、ムーサがまだ海外領土大臣の官房にいたころ、「海外投資銀行」という銀行を創設したばかりであったフーシエはムーサのところへ相談に通ったのであった。そのころから会長はこの若くて頭のきれる男に眼をつけていたが、その後パリバ・グループの自分の後釜にはこの男をおいてはないと思いこむに至ったらしい。この計画は1978年に実現する。フランスでもトップの人事はトップが決めるという習慣になっているらしく、この人選には誰も文句をいうものはなかったといわれる。
 ムーサは異例の出世をしたわけである。文学青年が世界有数の大銀行のトップになったのだ。このことを人に聞かれると、「銀行屋のうち、若いとき文学をやろうとしたものが案外多いんですよ。銀行屋という商売は、数字ばかり扱うものと思ったら間違いですよ」答えていた、といわれている。ムーサと話したことのある人は、その話題の豊富なのに一驚したということだ。

     パリバ事件の残すもの
 その経歴をみてもわかるように、ムーサは左翼に近く、前のジスカール・デスタン大統領のころより、今度の権力内には多くの友人を持っている。ミッテランとモーロワ首相は銀行屋ぎらいで通っているのでムーサとの面会は拒んできたといわれるが、ドロール蔵相も、また彼が官界にあったころの上司であったデェフェール内相とも親密であり、ミッテランの経済問題の助言者である若い経済テクノクラートのジャック・アタリなどにも信頼を得ているといわれる。ムーサがフランス国内のパリバとインターナショナル・パリバとを分離して経営を二つに分けるという理論を説いて廻ったとき、ドロールをはじめ、みなの人が彼の言うことに耳を傾けたということである。少なくともムーサ自身は政府当局を説得できたものと思いこんだ、と彼はジュンヌ・アフリカの記者に語っている。
 しかるに最後の瞬間になって、彼は見放された。少なくとも政府はムーサが猫かぶりの二枚舌であったと信じこむに至ったのである。そして一方、スイスやベルギーのパリバの子会社の重役はムーサに反対してパルジュサ投資銀行によるパリバ・スイスの買い取りを重役会で承認したのだった。
 ムーサが辞任したニュースを聞いたドロール蔵相は「ピエール・ムーサは約束を守らなかったからパリバ会長を辞めざるを得なかったのだ」と、質問に立った社会党の代議士に答えたといわれる。そのときつづいて答弁に立ったモーロワ首相は、「ムーサ氏はフランス市民としての態度を保持していないようにみえます。彼の態度には、移民のような心理が働いているように思われるが、これは問題とさるべきものであります」と答弁している。この「移民のような」という言葉のうらに、ムーサのエジプト人の血への皮肉があると思われる。そしてまた言えば、当然のことではあるが、モーロワ首相のフランス人らしい愛国の心理がのぞいているように思われる。ムーサは、ユダヤ人であるかどうかは別として、たしかにエジプト人移民の血をひくフランス人だからである。
 ムーサの悲劇はそのまま、フランス左翼政権のもつ国粋主義と国際主義との矛盾をあらわすものであり、国有化政策のむずかしさを露呈したものといえよう。

 ミッテラン政権の諸改革の実施は、いよいよ1982年早々からはじまることになる。この攻勢にさきがけて、政府はパリバ事件への報復をはじめていると伝えられる。フランス・フランと金[きん]の国外流出に対する摘発がそれである。
 フランのスイスへの流出は、驚くことに5月10日の大統領選の結着から以前にすでにはじまっていたということである。このことは、ジスカール・デスタンの敗北はすでに選挙まえから予想されていたことを示すものだ。そして今回のパリバ事件というのも、このフランの不法流出の流れに沿うものであることをみせつける事件であったと考えることもできる。流出したフランや金塊はスイスを経てベルギーやカナダへと移動したことが最近明らかになっている。
 スイスは周知のとおり、ことカネのことに関しては超自由主義の国柄であるから、フランス側からフランの不法投機に対して取り締まりを依頼しても聞く耳をもつはずはない。だから、11月6日エリゼー宮を訪問したピエール・オーベル、スイス外相は、ミッテランに向かって次のように言った。「私も同じく社会主義者としてあなたに共感は覚えていますが、しかし、スイス政府の閣僚の一人として、政府の連帯を尊重せざるを得ません。あなたのお力になることは、何ひとつできません」と。
 近着のヌーヴェル・オプセルヴァトール紙は、このようなフランスの情勢に対するアメリカ金融界の意見として、モルガン・スタンレイ銀行のウルリックに言わせている。
 「(ミッテランの実験が) 全然駄目だとは誰にも予見することはできない。しかし英国にしても、スウェーデンにしても、とくに東欧の諸国など、同じような実験をしてみたが、みんなうまく行っていません。社会主義の経済と市場経済のあいだの溝はとても大きいのです。これが、不幸にして現実なんです」と。
 米国の経済人は Wait and see の態度をとっているのだ、とこの週刊紙は書いている。◼️

     三田評論 1982年 1月号

    [註 40年以上前のフランスで、合法的に社会主義政権が誕生しつつある時代の動静を伝える珍しい文章を発掘したので、採録した]