
クリストファー・ノーランに捧げる
どうして僕がなかなか眠ることができないか、君は知りたいというんだね。睡眠薬を大量に、医者の処方よりも多く服用しても、安らかな眠りが僕には訪れないというのは、医者が間抜けだからじゃないし、薬剤師が手を抜いているわけでもない。純粋に僕の側に原因があるのさ。だから君が病院を責めるのは無意味だし、そもそも愚鈍なあいつらには、僕の不眠を解消する手立てなんてない。ただ形式的な診察をして、マニュアルに従って薬を出すだけなんだ。そんな連中は、風邪やかすり傷一つ治せやしないだろうね。
だからと言って、君が案ずるように、別に僕が偏執狂というわけではないと思うよ。誰にだって、一度や二度は眠れなくて、ベッドの上で悶々としていたことはあるだろう。そう、君にだってあるはずだ。だけど、大抵の人は「そんなものさ」で済ませてしまう……。僕だって子どもの頃はそうだった。第一、眠れないなんて思ったことがなかったよ。外を駆けずり回って、友達とひたすら遊んで、夜になって夕ご飯を食べたら、もうそれで夢の中さ。子どもっていうのは、本当に不気味なくらいに無邪気なんだ。知らないってことは強いものだね。僕だって、この世界の深淵さえ覗かなければ、そうやっていつでも安眠を貪ることだってできたはずだよ。だけど駄目だ、一度負の連鎖に嵌まってしまったら、もう抜けられない。ちょうど蟻がアリジゴクの巣に嵌まって、もがいてももがいても脱出できず、最終的に体液を吸われて抜け殻の屍になるようにね。
ああ、君の僕に対する愛情は、一度だって疑ったことはないよ。だから、君が僕のことを心配するのはもっともだし、感謝もしている。だから僕には、ある種の……そう言って良ければ、説明責任があるわけだ。まあ、大した話じゃないけどね。君が退屈するだけだと思って、今まで黙っていたのさ。別に君のことを軽んじていたわけじゃあない。どこかの小説の出だしにもあったけど、「はじめからはじめる」ことにしようか。その方が、君の疑問にも明確に答えられるだろうと思う。
初めてその感覚を覚えたのは、数日前の寝苦しい夏の夜のことだった。君も覚えているだろう、カゲロウが大量発生して、ロンドンの路地を一夜で覆ってしまった夜のことさ。あの夜はまさに恐怖だったね。馬車は進めなくなるし、馬だって死んだカゲロウを踏んづけてしょっちゅう蹄(ひづめ)を滑らせてばかりいた。道を歩く人もほとんどいなかったんじゃないかな。その静謐な夜には、君だって、なんだか不穏な空気を感じたに違いないんだ。悪魔的と言ってもいいし、夢幻的とも形容できる、あの陰鬱な時間さ。でも、君は僕のそばにいて、ぐっすり眠っていた。よく眠れるものだと、僕は半ば呆れ、半ば感心していたんだよ。その意味でも、君はまだまだ子どもだ。君のそんなところに、僕はとても惹かれたんだけどね。
しばらくベッドの上で輾転反側(てんてんはんそく)して、かれこれ一時間も経ったんじゃないかな。ロンドン塔の鐘が、二回鳴るのが聞こえて、僕は起き出した。寝るのはもう諦めて、ガゼットか読みかけの小説でも開こうかと思って、窓際に行ってコーヒーを淹れた。外では相変わらずカゲロウが馬鹿でかい木の葉のように舞っていて、月も出ていた。気温がもう少し低かったら、神秘的な光景だと感動していたかもしれないな。でも部屋の中は熱気がこもっているし、だからと言って窓を開けるわけにもいかない。虫が大量に入ってくるのが分かってたからね。というわけで、僕は窓際まで椅子を持って行って、デイリー・ガゼットに目を通した。そう、あの木の椅子だよ。僕のお気に入りので、骨董品屋で三ポンドで買ったやつさ。僕があの椅子を持って帰ったのを見て、また無駄遣いをしたのか、と君が呆れた表情をして見せたのを、僕は今でも覚えている。
ガゼットの記事は退屈極まりなかった。そんなこと、読む前に気づいて然るべきだったんだ。だいたい、僕は世間の動静には疎いし、まったく興味もないんだからね。時々好きな器やら絵画やらが買えて、後は衣食住が足りて生活できればそれでいいのさ。君も知っての通り、僕の両親は莫大とは言えないまでも、僕が一生働かなくて済むくらいの遺産は残してくれたからね。でも、君は繰り返し言っていたな。遺産を食いつぶすようなぬるま湯に浸かった生活は、人を堕落させるって。
さて、本題に戻ろうか。あの晩、斜め読みしていたガゼットを放り投げると、今度は小説に手を伸ばした。窓際の蠟燭は時々隙間風で揺れたけど、細かい字が読めないわけじゃない。というわけで、コーヒーの力を借りて、小説を読み終わった頃には鐘が三回鳴り終わったのを覚えている。かれこれ一時間は経っていたんだね。でも、眠気は一向に訪れなかった。コーヒーをミルクなしでブラックで飲んだのがまずかったのかもしれないな。翌日には友人と会う約束を入れていたし、これはすっぽかしたくはなかった。というわけで、僕は再び寝てみようと思って横になったんだ。相変わらず、君の穏やかな寝息が聞こえてきて、それだけでも僕は安心した気持ちになったんだ。おべんちゃらを言ってんじゃない、誓って本当だよ。
さあ寝るぞ、と気合を入れてベッドに入ったはいいけれど、なんだか毛布が体にまとわりついてくるようで、眠気はちっともやってこなかった。いや、この言い方は正確じゃないな。眠気はあるんだけど、何かが僕に睡眠をとらせるのを邪魔しているみたいなんだ。ちょうど君が舞台で歌おうとするところを想像してほしい。まあ、いつもやっていることだと思うんだけどね。その時に、他の——男でも女でもいいんだけど——誰かが観客席で別の下手糞な歌をがなり立てるようなものだ。君だって、気になって歌唱に集中できないだろう? それと似たような感覚なんだ。目を瞑(つむ)って暗黒の世界にいざ身を投じようとすると、誰かが腕を強引に引っ張って引きずり上げる感じ。あんまりいい体験じゃなかったな。
というわけで、結局その日、僕は一睡もできずに寝ぼけ眼で約束の会合に出かける羽目になったわけだ。とは言っても、例のカゲロウの死骸が路上いっぱいにじゅうたんのように敷き詰められていたんで、友人は一時間遅れでカフェに到着していたし、僕も似たようなものだった。彼は、僕が寝不足で目を真っ赤にしているのを心配してくれたけど、大した問題じゃないよと言って、言葉を濁しておいた。実際、本当にそう思っていたし、たかだか一晩眠れないくらいで、誰も大騒ぎなんてしないだろう。君は、新しく見つけたタイピストの仕事が忙しくなったと言って、馬車にも乗らずに飛び出していったっけね。いやいや、頭を下げるには及ばないよ。君の仕事が順調に進んでいるのを見るのは、僕だって嬉しいし、大体、ただの寝不足の僕を心配する余地なんて、これっぽっちもなかったんだからね。
その日も蒸し暑くて寝苦しい夜だった。でも、君は全く感じなかっただろうな。だって、仕事で疲れ切って帰って、夕食も取らずに寝てしまったんだから。確かあの晩は、君も帰りが遅くて、一緒に食事ができなかったんだっけ。僕はまあ、君も知っての通り道楽者だから、とんでもない時間にとんでもないものを食べたり飲んだりするんで、家政婦のエリーには呆れられる始末だ。下駄箱から黒パンの塊が出てきたり、切り取ったばかりのバターが本棚の隅に置かれていることも、時々あったよね。エリーはそんないい加減なことは天地がひっくり返っても許さないから、僕が気がつかないうちにしでかしたんだろうけど、まあそんなことはどうでもいい。
そんなわけで、僕は君がベッドですやすやと寝ているのを尻目に、昨日読み終えた小説を読むともなくぱらぱらと開きながら、機械的にパン切れを口に運んでいた。やっぱりカゲロウの大群がロンドン中を飛び回っていたんで、その晩も窓を開けられなかったのは残念と言うべきかな。でも、さすがに僕も睡魔に負けそうになってうとうとしていたから、君の隣の毛布に潜り込んだ。
さて、ようやく眠れると思ったんだけど、やっぱり昨晩と同じく、何かが僕の邪魔をしているような気がしたんだ。眠いんだけど眠れない。誰でも体験するだろうし、言葉にしてしまうと大したことはないんだけど、それでも苦々しい状態だよね。何度か寝返りを打って初めて気がついた。僕の睡眠を邪魔しているのは、自分の手足みたいなんだ。なんて言えばいいのかな。物分かりの悪い君にも分かるように、かみ砕いて説明してみようか。
人間は寝る時に、ベッドのシーツの下に何かあると、何となく寝心地が悪くなるだろう。「豆粒の上に寝たお姫様」の童謡じゃないけど、繊細で気が張り詰めている人間ほど、そうした些細な変化を気にするみたいだね。だからと言って、僕が貴族然としているとか、デリケートな心の持ち主だなんて考えないでほしいんだ。君も知っての通り、僕はずぼらなところがたくさんあって、しょっちゅう友人やエリーを怒らせてばかりいるんだからね。でも、どんな図太い神経の持ち主だろうが、デリカシーの欠片もない連中だろうが、眠れない夜の一晩や二晩はある。
ああ、その豆粒だけどね。自分の手足がちょうど豆粒のように気になるものになってきたんだ。寝返りを打っても、手が邪魔をしてなんだか体がスムーズに動かない。仰向けに寝ても、膝を曲げたり伸ばしたりしないと居心地が悪い。横向きに寝ると、ちょうど天井側にある片足が、床側のもう一方の足を圧迫するようで、やり切れない。最初は気のせいかなとも思ったよ。でも、考えれば考えるほど、手と足の置き場所というのかな、正しい位置というのが分からなくなって、頭がこんがらがってくるんだ。もちろん、手足に正しい位置なんて、原理的にないはずだよ。要は、腕は肩から伸びていればいいし、足は腰の付け根から生えていればそれでいい。それ以外に「正しい位置」なんてあるものか! でもね、横になっていると、そんな常識的な考えに時折疑問を持ちたくなる。手や足や、腕や指があるべきところにきちんと収まっているのか、もしあるべきところになければ、どうしたらいいのか。そんな妄想とも言える考えばかりが頭の中を占めてしまって、どうにもならないんだよ。
カゲロウが夜空に充満する宵闇の中、君は僕のことなど構わずに眠りの世界で戯れていたね——いや、誤解してほしくないんだが、決して僕は君を責めてるわけじゃない。隣に寝ている男が多少寝つきが悪かったって、君がそれに付き合う義理なんか、これっぽちもないんだからね。でも、正直なところ、僕は君が妬ましかった。どうして手足の場所を気にせず、そうして安眠を獲得することができるのか! 激しく揺り起こして、そのコツと言うのかな、まあとにかく、秘訣を聞いてみたい衝動に駆られた。僕は相変わらず四肢の正しい置き場所が分からなくて悶々とした時間を過ごした。時計の針のこつこつ、という音なんか、全然気にならないし、一時間ごとに無骨に鳴るロンドン塔の鐘楼なんかも、ほとんど耳に入らなかった。僕が気にしたのはただ一点——どこに手と足を置くか、置かなければならないかってことだ。
ここまで告白すると、君は僕の頭が狂ってると思うだろうな。その推測はあながち間違っちゃいない。今になって、君の忠告が正しいものだと信じられてきたよ。あれさ、人間はどんなに経済的に余裕があっても働かなければいけないという、ミッションスクールの優等生的な貴重なご意見だ。しかしだね、今の僕を見てみたまえ。僕がけちな事務所の事務員をやっているとか、会計検査係で数字をいじくっているとか、あるいは書記として筆を滑らせている光景を、君は想像できるかい? 僕には無理な仕事ばかりなんだ。だからこうして、ただ親の遺産を食いつぶすだけの厄介者になっているというわけだけどね。そこに行くと、兄貴はやっぱりすごかった。大した努力もしないくせにオックスフォード大学を首席で卒業して、今は弁護士事務所を開業して社会的地位と経済的安定を得ている。結婚もして、今では二児の父親だ。それに——いや、これ以上優秀な兄と比較して、劣等生の弟の恥を晒(さら)すのはやめておこう。僕には君だけがいればいいんだし、それ以上望むことなんて、基本、僕にはない。もちろん、兄貴が羨ましいと思わないでもない。でも、羨んでも、どうすることもできないからね。兄は、僕にお金を送ってくれるわけでもない。そもそも、最後に話したのがいつだったか、それすら忘れてしまったよ。話すことなんて、これっぽっちもないんだけどね。僕は骨董品や古書やら訳の分からないものを収集して悦に入っているだけの、ただのディレッタント。かたやオックスフォード卒業生にして、バッジを胸にきらきらさせている弁護士様。どうしたって、比較のしようがないじゃないか!
どうも僕は脱線してばかりでいけない。僕の睡眠を邪魔するのは何か、という話だったね。でも察しのいい君はもう分かっているだろう。その晩もやっぱり眠れなかった。二日連続の徹夜なんて、若い頃だってやらなかったろうな。ましてや僕も四十を超えて、立派なロンドンの中年紳士というわけだし、これ以上の負荷は体に堪える。家政婦のエリーは、僕の顔を見てびっくりしていたよ。眠れない理由を正直に言うわけにはいかなかった。僕は昔、頭の中に虫が湧いているとわめきたてたせいで、一度精神病院にぶち込まれたことがあったんだ。このことは君には話してなかったっけ? まあ、そんなことは今はどうでもいい。虫が湧いていたのは今回こそは事実だと思うよ。だって、ロンドン市民は、みんなカゲロウの大発生に頭を悩ませていたじゃないか。それがロンドン市街だろうが、ロンドン紳士の頭の中だろうが、大した違いじゃない。
でも、エリーは君に似て生真面目と言うか、融通の利かないところがあったから、僕の悩みを気取られるわけにはいかなかった。もし少しでも悩みを悟られちゃったら、それこそ二回目の精神病院訪問という恩恵に浴すことになる。それだけはどうしても避けたかった。君は精神病院なんかに足を踏み入れたことがないから分からないかもしれないが、あれはまともな人間がかかわるところじゃないよ。まともじゃないからかかわるんだって? ははっ、それは一本取られたな。ということは、僕も相当まともじゃないというわけか。そう言えば、このアパートの隣の住人、確か年若い未亡人だったと思うんだけど、僕の奇妙な収集癖のせいで、大家さんに苦情を申し立てていたらしいね。僕は世界に数冊しかない稀覯書とか、ユニークピースと呼ばれる一点物の骨董品、それに大陸から輸入されてきた呪物や魔導書の類が大好物だからね。それらに囲まれていると、自分の存在が認められたという気持ちになる。そう、いてもいい場所にいる、というあの感覚なんだ。
それと同じで、朝になると手足の場所も、すんなりと収まるべきところに収まる気がする。そう、そこにいてもいいんだよ、と誰かが呼びかけてくる感じなんだ。翌朝、ドアを開けて外に出てみたら、相変わらずカゲロウの死体は路地一面に広がっていたけれど、不快な感じはしなかった。むしろ、さくさくと音を立てる感触は、秋の枯葉を踏んでいるようだったな。
僕は嬉しくなって、行き先も特に決まっていないのに、どんどん街を歩いて行った。カフェに寄って飲みたくもないコーヒーとシェリー酒を頼んだ。あれはたぶんオオシロカゲロウだと思うんだけど、その羽化したてのカゲロウが窓のガラス一面に付着しているのを見ながら、苦い琥珀色の液体を口に含むのは快感以外何物でもなかった。全然喉は乾いていなかったけど、その雰囲気だけで良かったんだろう。外なんて、カゲロウのせいでまるで見えやしないんだよ。
他の客はほとんどいなかった。わずかに、カウンターに座っていた立派な髭を生やした初老の男が、窓のカゲロウを見て溜息をつきながらエールのジョッキを傾けているくらいだった。僕はそいつのそばに行って、「やあ、おはよう!」と挨拶してやった。男は、まるで人形が口をきいたみたいな顔をして、口をあんぐり開けていたっけね。僕は続けて、「いい天気ですね。あなたの健康のために、もう一杯、エールをごちそうさせてください」とか何とか、調子のいいことを言って、エールを追加で注文してやった。そして半ソヴリン金貨をカウンターに置くと、そのままカフェを出た。僕のコーヒーとシェリー酒はどうなったかって? ほったらかしさ、もちろん。最初に言っただろう、飲み物なんて飲みたくもなかったし、喉も乾いていなかったって。
空は一面、カゲロウが飛び交っていて薄暗いくらいだった。ただでさえ雲が立ち込めていて、ロンドン名物の霧だって薄く広がっているのに、あの忌々しい虫のせいで視界はゼロ。でも、僕は気になんかしなかった。だって、手と足が、正しい位置にすっぽり収まっているんだから。右足を出すと同時に右腕を引いて左腕を前に突き出す。左足を出したら、その逆をやればいい。眠気は絶え間なく襲ってきたけど、僕は歩くのをやめられなかった。だってさ、腕と足が完璧な連携を保って、ずっと僕を支配し続けるんだ。そして、僕の意思に反してずんずんと街を闊歩していく。賭けてもいいけど、街を半周もしたし、ハイド・パーク辺りまで足を伸ばしたような気がするんだけど、その行程の半分以上は、僕はまるで意識がなかったな。
気がついたら、自分の古臭いアパートの正面玄関に立っていて、空から降ってくるカゲロウの死体を口に含んではぐちゃぐちゃと咀嚼していた。半透明の体液が、実は意外に甘かったりするんだ。君には信じられないだろう。でも、ほんとなんだ。虫なんて苦いものだと思ってばかりいたけど、でもさ、それならなんで、わざわざ飛んでいるツバメやコマドリは、虫を好んで食べるんだろう。その瞬間、僕は鳥になったんだ。鳥には腕がないし、足だって細っこいのが危なっかしくついているだけだろう。そんなところも、僕は鳥に似ている。
外はすっかり薄闇が覆っていて、やっぱり眠気は相変わらず僕を責め苛んだ。もう、眠たくて眠たくて、どうしようもなかったよ。これだったらすぐにでも休めそうだと思ったけど、お腹が空いてどうしようもなかった。前にデイリー・ガゼットに、くだらない記事が掲載されていてね。人は眠いのとお腹が空いたのとが同時に襲ってきた時、どちらを優先するかという話なのさ。そして、やっぱりくだらない記者によると、お腹が空いた方を優先する人は、人格的にも攻撃的なんだそうだ。僕は今でも疑問に思う。そんなこと、時と場合によるじゃないか。何日も食事を取っていなかった場合と、何日も徹夜を繰り返した場合で、選択は変わるはずなのに、そんなくだらないことで人の性格を決定されちゃあ、たまったもんじゃない。
僕が優先したのは食欲だった。君には意外に思うだろう。だってカフェにも寄ったし、そもそもカゲロウをお腹いっぱい食べたはずなんだからね。でもさ、カゲロウは軽くて薄くて小さくて、まるで薄紙みたいで、とても腹が膨れる代物じゃない。それにさ、カゲロウでお腹がぱんぱんになるっていうのも、何だかぞっとしないじゃないか。戸棚を開けてみたら、二日か三日前の黒パンと、チーズと、干し肉があったんだ。これこそ奇跡的だったね。何しろ、僕は最後に食事を取ったのがいつだったか、全然覚えていなかったんだから。それに、君はその時いなかったんじゃないかな。いたとしたら、きっとこうお願いしていたはずなんだ。「ねえ君、済まないけれど、にんにくの利いたスープと白パンを用意してくれないかな、いつものようにね」なんてね。でも、君はいつだって肝心な時は留守なんだ。劇場に行って呑気にオペラを鑑賞していたのか、古本屋を巡っていたのか、あるいはこの可能性は低いんだけど仕事だったのか、その辺は分からないんだけどさ。
それこそ僕はがつがつと黒パンを食べて、チーズと干し肉を丸かじりした。ちょっと黴(かび)が生えていたような気もするけど、そんなことはどうでも良かったんだ。腹が一杯になると、とたんに眠気が襲ってきた。ようし、これならば眠れるぞ、と思って、しまった、と後悔した。そうやって勢い込んじゃいけなかったんだ。変に興奮して、ますます眠れなくなるからね。僕は気分を落ち着かせるためにチョコレートを一切れ口に含んで、それから薄いお茶を淹れた。そう、この僕が一人でお茶を淹れたんだよ。家事全般と言えば、エリーか君に頼りっきりだったこの僕が、だ。それはともかく、そうすればゆっくり眠れると思ってね。
ところが、こうした慣れないことをしたのもいけなかったんだ。妙に気が立っちゃったと言うべきか、電気を消して暗闇の中で目を閉じても、一向に眠れないんだ。君はまだ帰ってきてなかったけど、君のせいではないんだよ。もちろん、君のことは心配していた。でもだからと言って、それで毎晩不眠に悩まされるなんてことは今までなかったし、これからは絶対にないだろう。そして原因は、やっぱり分かってる、僕の手足なんだ。どこに手足を置くべきか、置かざるべきか、それが問題だ。ははっ、冗談を言ってる暇なんかないんだよ。これから色々と忙しくなるんだから。まあ、君には密接に関係してるけど、ある意味では関係していない用事で、と言ったところかな。それはともかく、そのうちにだんだん気がついてきたんだ。
そう、繰り返しになるけど、僕の安眠を妨げているのは、僕の手足自身なんだってことさ。今までも知ってたんだろうけど、あんなに痛切に思ったのはこの時が初めてだったな。この邪魔っけで、醜く歪んで節ばった棒切れのような手足を見ていると、胸がうずうずしたよ。そうか、こいつらのせいで眠れないんだ。ベッドの上でごろりと横になっても、右手はベッドの上に置くべきか、下にだらんと垂れ下げるかが分からないし足を曲げた方がいいのか、それとも伸ばしてベッドの淵ぎりぎりまで近づけた方がいいのかも皆目見当がつかない。僕を苦しめるあらゆる元凶、そして僕をあの甘美な眠りの世界に誘うのを頑なにこばんでいるのが、僕のくだらなくて益体もない四肢なんだ。もう、悔しくて憎らしくてたまらなかったよ。
僕はそれでも自分の手のひらと足の先を見ないようにして、とにかくベッドで横になった。例によって、塔の鐘が何度も鳴っても、どうしても眠れない。左腕はどうやって保管したらいいんだろう。そもそも、右手首はここにいていいものなのか? 何で左腕が僕の額の上に乗っている? だいたい、左足の指を曲げたり伸ばしたりしているのは気に食わない。右足が奇妙な具合に外に突き出して、毛布とシーツの隙間から滑り落ちそうになっているのは、なんでなんだろう。手足をそれこそひっくり返った甲虫のようにばたばたさせて、毛布を蹴り上げたり枕の位置を直したりしても、どうしても眠れないんだ。ああ、こんなことになるんなら、手足なんかいらないんだけどな。だいたい、僕は頭脳作業には向いてるけど、手足を使った肉体労働は苦手なんだ。何やら淫靡な感じがするよ。この僕が溝堀り人夫になって、汗水垂らしてロンドンの街路地の一角を掘り起こしているなんて、自分でも想像がつかないからね。
そうして悶え苦しむこと、三時間は経ったんじゃないかな。君はまだ帰ってこなかった。そう、不実者の君は、僕を見捨てて他の男に走っていったに違いないと、僕はかねてからにらんでいた。だってそうだろう、僕には自由にできる財産はあるけれど、決して余裕があったり豊かであったりするわけじゃない。働きもせず、家の中で読書をするか、あてもなく散歩をするか、ベッドに寝そべって益体もない考え事をして時間を潰すしか、脳のない人間だからね。いくら寛大な君だって、僕には退屈し、呆れ、幻滅するだろう。そう僕は頭から信じ込んでいたんだ。今になって思えば、もう少し君を信頼しても良かった気がするんだが、何しろ不眠に悩まされていたし、忌々しいカゲロウは相変わらず街中を跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)していて、窓なんて開けられたもんじゃない。それでいて夏の湿気だけは窓の隙間から入ってくるんだ。せめて風だけでも入れたいと思ったんだけど、そうもいかなかった。まあ、カゲロウは美味だと分かっていたけど、それでも一緒に添い寝したいような輩じゃないからね。
おや、君の首がどんどん左に落ちていくようだよ。僕がくだらなく空疎な話ばかりするから、それこそ眠気に襲われたのかな。待ちたまえ、今濃いコーヒーを淹れるから。僕は濃いコーヒーを飲むと、必ず胃腸を壊すんだけど、もしもの時のために来客用に淹れられるようにはしてあるのさ。まあ、来客なんてめったにないのは、君も知っての通りだ。だのに、なぜ初日にコーヒーを飲んだのかって? いやほら、あれは薄いコーヒーだったんだよ。薄いのならば、僕はいくらでも飲めるんだ。そんなに責めるような目で見なくてもいいじゃないか。
だから、もう少しだけ我慢して聞いてほしい。そうすれば、君もきっと納得してくれると思うんだ。僕の……苦悩と言うか、苦しみと言うか。人に分かってほしいだなんて切実に思ったのは、生まれて初めてだよ。さあ、体を起こしてくれないか。あ、そうか。体を起こすのは辛かろうね。じゃあそのままでいいから、耳だけ貸してくれるとありがたいな。
安眠妨害の原因が、僕の四肢の存在にあるというのは分かってくれたと思う。この忌々しい厄介物をどうにかできないかと、それこそ僕はベッドの上で頭をかきむしりながら思ったね。そこでふと思いついて、僕はマントルピースの上に置いてある飾りのついたナイフを手に取ってみた。ほら、君も覚えているはずだろうけど、前に大陸に行った時に買った観賞用のナイフだ。ごてごてと飾りつけだけは派手で、アウトドアや護身などの実用には程遠いけど、暖炉を暖める焚きつけを作ったり、木切れを削ったりするくらいのことはできる。僕はその刀身をしげしげと眺めた。外の月明かりが締め切ったカーテンの隙間から差し込んで、その金属が反射して、愚かしいほど綺麗だったよ。僕はまず、そのナイフの刃で左手の甲を少しだけなぞってみた。痛みはほとんど感じなかった。ちょっと、あの、いわゆる「焼けるような痛み」を期待していたのに、拍子抜けしちゃったよ。血がさあーっと滴り落ちて、僕の寝巻に当たって床に零れ落ちた。血を舐めてみると、何とも甘い味がしたんだ。そう、カゲロウを食べた時の味とそっくりだった。これは新たな発見だ。論文にして発表したら、世界中の学者がおったまげるだろうな。「カゲロウとヒトの血液の類似性に関する考察」とか何とか、適当な題名をつけて、さて、執筆でもしようかと本気で思ったよ。ははっ。
またナイフを、今度は左手の手のひらに優しく突き立てた。血は少し黒ずんでいたけど、味は変わらなかった。こうなると僕はもう夢中になった。少し切りつけては血を吸い、そしてまた切りつけては吸い、を十数回は繰り返したんじゃなかったかな。口の中はもう血でべとべとさ。でもそんなことに構っていられなかった。朧(おぼろ)に浮かぶ月とカゲロウの大群を見ながら、僕はだんだん腹が立ってきた。なぜか、だって? だって、君はあの晩、いつまで経ってもなかなか帰ってこなかったじゃないか! ああ、何もそんなに驚く必要はないんだよ。気を静めるためにコーヒーを飲みたまえ。さっきから全然口をつけていないじゃないか。あ、君も僕と同じで、コーヒーは苦手だったかな。そいつは気づかなくて失礼した。でもまあ、もう少しの辛抱だから、我慢してくれたまえ。さして時間は取らせないから。
血の味を堪能しながら、僕は君が帰って来ない理由をそれこそ百ダースは考えた。でも大半の考えは、現実にはおよそ起こりそうにない事態ばかりだった。例えば、君が帰宅途中に動物園から脱走したライオンに襲われたに違いない、とか、地下鉄が脱線して横転し、事故で息も絶え絶えになったんだろうか、とかね。まあ、息も絶え絶え、のところは合っているかもしれないけどさ。いや、これも正確には違うな。そもそも、息してるのかい、君?
そうやってナイフと左の手のひら、そして流れ落ちる蠱惑的な鮮血と戯れて、どれくらい時間が経っただろう。月光は向きをほとんど変えていなかったから、さして時は過ぎていなかったのかもしれないな。急にがたりという音が背後から聞こえてきて、僕は文字通り飛び上がりそうになった。あれほど驚いたことはなかったよ。子どもの頃、馬の尻尾に仕掛け花火を結ぶといういたずらをしてた時に、母親にその現場を見つかって以来かもしれないな。別に疚(やま)しいことはしていないつもりだったけど、血だらけの手のひらをぺろぺろ舐めている姿なんて、人に見せたい光景じゃないからね。
恐る恐る振り向くと、君が全身をあの魅惑的かつ夢幻的なカゲロウまみれにしながら、ドアを開けている最中だった。君が僕を見る目つきと言ったら、もう例えようがないほど恐ろしかったよ。僕を幻滅の底に叩きつけるには、それだけで十分だった。君は汚物を見るような冷め切った視線を僕に寄こしながら、「あんた、何してんの?」って言ったんだよ。覚えてないかな? こら、人の話を聞いてるのかい? 覚えているかそうでないかぐらい、反応してくれたっていいじゃないか。まあそれはともかく、僕はカゲロウのあの甘い芳香の他に、君からぷんぷん発せられる他の男の匂いも嗅ぎ取った。そうさ、君は僕を見捨てて他の男のもとに走ったんだ。そしてたっぷりと乳繰り合ってから、そしらぬ顔で帰ってきたというわけだ。ということは、君にとって僕にはまだ存在価値はあったということだ。もし僕のことが心底嫌いなら、そもそも帰ってくるはずなんかないからね。でも、そのあとに発せられた言葉を聞いた時、僕は自分の考えが甘かったことを悟った。今考えれば、君は決意を固めていたんだろう。君が続けて発せられた言葉を、僕は自分でもびっくりするくらい冷静になって聞いていた。
「荷物を取りに来たの」と君は言った。そう、一語一句間違えずに覚えているのさ。何しろ衝撃的な台詞だったからね。「一刻も早く、ここから出たいから。本当はあなたが寝ている間に出ていこうと思って、時間を潰していたんだけど、あなた、まだ起きていたのね」
時間を潰した、だって! ちゃんちゃらおかしい言い訳だ。他の男との蜜月をたっぷり過ごした、と言うべきだろう。僕は流れる血を舐めまわす舌をちろちろさせながら、君に向かっていった。君の眼。何て綺麗なんだろう。不意に虎に襲われて、逃げ道がなくなったカモシカだって、あんなに美しく眼を光らせられるもんじゃない。そして、君にとっての虎が、僕の右手に握っていたナイフだったというわけだ。僕はずかずかと君のそばまで歩いていった。君が何か言おうと口を開いたけど、僕はろくすっぽ聞いちゃいなかったし、そもそも聞く気もなかった。僕はただ黙って、無言で、一言も発さずにナイフを目の高さまで上げた。君はぽかんと口を開けていただけだったね。その眼の光には、哀れみも恐怖も、何もなかった。ただ無だけがあったんだ。そう、虚空の、何も見ていない眼。
僕はナイフを一閃させた。君の喉が、第二の口みたいにぱっくり割れるのが見えた。それから遅れて、血がどばどばと流れ出した。僕の左手とは比較にならないくらいだったな。返り血を浴びたけど、どうということはなかった。君はドアのすぐ横の椅子に座り込んだ。そう、今君がいる場所さ。どうしたんだろうと思って、僕が近づいて行っても、君は顔も上げなかった。どうして今も上げてくれないんだい? 僕がこれほど、魂の告白をしている時だというのに。
君の血は、僕のそれとは違って、何だかどす黒いような気がした。でもまあ物は試しだと思って、そうっと一滴、口に含んでみた。苦い味がしたよ。それで僕は悟った。ああ、僕と君とは、生きている世界が違うんだ。僕の魂の居場所は、むしろ、カゲロウの生きている世界に近い。そして君は、他の誰かの男の世界に安住している。そう悟った瞬間、泣けてきたね。僕は思い切りナイフを振りかぶって、切っ先を君の脳天に突き刺した。血は出なかったけど、君は今みたいに首を傾けて、それから——驚いたことに——また頭を垂直に戻したんだ。意識してかどうか知らないけど、その行為で、僕は少しだけ君を見直した。ああ、僕らはやり直せるかもしれないな。そんな希望に満ちた考えが去来して、僕は幸せの絶頂にいたんだ。これなら眠れるかもしれない。僕は君に、お休み、と言って、ベッドに入ったんだ。君は挨拶を返してくれなかったけど、別にだからと言って怒っているわけじゃない。
あれだけ満ち足りた夜を過ごしたんだもの。今晩こそは眠れると思って、意気揚々とベッドに潜り込んだ。ところが、いつまで経ってもあの心休まる夢の世界には入れない。相変わらず、と言っていいと思うが、やっぱり手足が邪魔なんだよ。おまけに、今になって僕の左手が何だかじんじんしてきた。そりゃ、あれだけナイフで切り傷を作れば、それくらいの痛みは覚えるだろうね。でももう、苛々の頂点に達していた僕は、それすらも腹立たしかった。
その時、天啓のように素晴らしいアイデアが閃いた。そう、雑草があったら刈り取ればいいし、日光を遮る葉や病気の枝があれば、剪定(せんてい)すればいい。体に癌があれば、切除すればいい。邪魔なものは取り去れ、という考えだよ。幸い、僕の手には切れ味鋭いナイフがまだ握ってあった。これをするのに、勇気が要ったのか、とか、覚悟があったのか、なんて野暮な質問はしないでほしいな。ごくごく自然の成り行きなのさ。というわけで、僕は右手のナイフを左腕のつけ根、ちょうど肩の下辺りに押し当てて、一気に引き裂いた。これまた血が派手に噴き出したものさ! 君の喉といい勝負だ。だがね、どうしても切れないんだよ。ベッドで寝ながらやったもんだから、体勢が良くなかったのかもしれない。既にナイフは血でべっとりと濡れていて、何だかぬらぬらして、切れ味が良くなかったのもあるのかもね。
僕は貧血でふらふらしてきた頭を振って、洗面台に行って血糊を洗い流した。その間もどくどくと血が流れていてね、小さな川みたいだったよ。月明かりに照らされて、ぬらぬらと光っていたのが印象的だった。でも、カゲロウが窓ガラス一面に張りついているもんだから、明かりは弱かった。僕はもう一度、今度は突き刺すような感じで——そう、君の頭にしたみたいに——左腕にナイフを突き刺した。ようやく左腕がぶらぶらし始めてね、右手で引きちぎってやった。左腕は、どこに置いたんだっけか。もう忘れちゃったけど、どこかその辺じゃないかな。カエサルの物はカエサルに。でも、断じて僕の肩にあってはいけないんだ。絶対に。
今度は両足だ。けど、両足は腕と違って太さが違うんで、勝手が随分違った。その頃にはもう、僕も力がなくなってきたからね。二回、三回とぐさぐさやってみたけど、どうにも取れそうもないんで、僕は残った右腕に神経を集中しようと切り替えた。ところがさ、右手で右手はどうしても切れないんだよ。ははっ、お笑い草だね。自分では完璧な計画のつもりだったんだけど、結局剪定(せんてい)できたのは左腕ただ一本というわけだ。それでも、まあ満足しなきゃいけないのかな。両手両足を切り取るなんて、しょせん独力でできるものではないからね。でも、やれることはやった。
そこでベッドに向かったんだけど、相変わらずさ。今度はあるはずもない左手が痺れるような感覚が襲ってきて、それこそ僕は気違いみたいになっちゃったよ。本当は君に僕の手足を切り取る作業を任せたかったんだけど、君はぐったり疲れているみたいだし、僕は相変わらず眠れない。左肩からは血が飛び散っちゃって、そもそも僕の体は汚くてしょうがなかったんだ。ベッドもぬらぬらと濡れちゃったし。どうしたもんかね。君だったら、どうしただろう? どうか、僕の安眠を約束すると言ってくれないか、愛しい君?
【プロフィール】
田林洋一(たばやし・よういち)。スペイン語学研究・スペイン文学研究に従事。2012年『スペイン語の否定語の概念構造に関する研究』を出版。その他、学術書には『『ドン・キホーテ』に潜む狂気 -正気を失ってしまったのは誰か』、『ドン・キホーテとフィクションのアウトサイダーたち』、『スペイン語の認知言語学 - 多面的かつ普遍的な認知言語学を目指して』などがある。小説の分野では『ポルヴォ・ロマンス -気軽に読める童話のような短篇集』、『セイバーズ・クロニクル 精霊と女剣士』、ゲームブックでは『セイバーズ・クロニクル』のスピンオフ作品『クレージュ・サーガ 魔法と長銃の使い手』などがある。FT書房のメールマガジン「FT新聞」に「スーパーアドベンチャーゲームがよく分かる本」を寄稿。
