「陽炎の町」吉澤亮馬

 彼の実家の最寄り駅に着く少し前、大樹は小さな声で言った。
「これから見えるもの、驚くと思うけど戸惑わないでね」
「見えるもの?」
 私は電車の車窓越しに外を眺める。山間(やまあい)に、のどかな田園風景が広がっている。山の緑と実った畑の作物が瑞々しく生命力に満ちていた。電車の行く先に目を向けると、町らしき建物がぽつぽつと見え始めた。
「驚くって何が? 普通に穏やかなところに見えるけれど」
「着けばわかる。きっと、みほはネガティブな印象を持つだろうから」
 妙に言い方が回りくどい。出会ってから四年、こんな濁すような言い方をする大樹は初めてだった。
 到着したのは無人駅である。ホームのアスファルトは無造作にひび割れており、看板はペンキが剥がれて読めなかった。
「……別に変ったところ、無いよね?」
「まだここはね」
 彼の要領を得ない返答にもやもやする。
 駅の宿舎から出るまであと数歩。駅前にバスロータリーなどはなく、一本道を隔てて田んぼが遠くまで広がっていた。
 普通の田舎だな――そう思いながら、駅の宿舎を出た瞬間だった。
 突然、目の前に商業施設らしきビルが現れた。高さは十階ほどで圧迫感がある。そのビル付近の商店街は多くの人でごった返していた。一瞬で世界が切り替わった気さえした。
「ほら、言ったとおり驚いたでしょ?」
 大樹の声で我に返った。彼は隣でいつも通りの表情をしている。
 それと同時に気がついた。見えている風景は賑やかなのに、そこから生じるはずの活気ある喧騒が一切聞こえない。聞こえるのは蝉の声と風の音、つまり静けさだった。
「ね、ねえ。これは何なの?」
「夏の陽炎だよ。しっかり目を凝らせば、すぐに見分けられるようになる」
 目の前の高層ビルを凝視する。たしかにビルが微(かす)かに揺らめいており、わずかに透けているのも分かった。
「すごいね。こんなに生々しい陽炎あるんだ」
「普段生活してると邪魔だけど、まあ今の時期だけだからさ」
 周辺を見回してみれば、賑やかな商店街も、行きかう車も、駅前を歩いている人も、そのほとんどが陽炎だった。目と耳の情報がちぐはぐで、変な夢を見ている気分になった。
 ふと、離れたところから小太りの男性が歩いてきた。他の陽炎と違って私たちを凝視しており、近づきながら手を振ってくる。
「大樹、あの陽炎どうしたんだろう。何か言いたげだよ」
 すると大樹は気まずそうな表情を浮かべた。
「あー……親父。何か言いたいことはある?」
「おかえり。みほさんも遠くからよく来たね」
 お義父さんはにやりと笑った。初対面だった。血の気が引いた。

     〇

 大樹のご両親への挨拶は無事に終わった。
 お二人ともとても優しく、終始和やかな雰囲気だった。初めて会ったとは思えないほど話も弾み、好意的に受け入れてくれたように感じた。
 大樹がお手洗いに立ったけれど、気まずさは全く無かった。
「そういえば、みほさんは実業団で走っていたことがあるんだっけ?」
「はい。怪我で引退しましたけれど、三年前まで」
 すると、お二方が顔を見合わせた。和やかだった空気が変わったのが分かった。
「ど、どうかされましたか?」
「いえね、率直に聞かせてもらえるかしら。みほさんはこの町をどう思った?」
「自然豊かでいいところだなと思います。空が広くてのどかで、のんびり過ごせそうな場所だなって」
「気を使わなくて大丈夫だからね。正直に言っていいんだから」
「え?」
「その通りだよ。みほさんも駅前で陽炎を見ただろう?」
 私はうなずいた。存在しない建物と人の姿は目に焼き付いている。
「大樹から話は聞いているかい?」
「あまり聞いていません。結局のところ、あれって何なんですか?」
「あれはね、実現しなかった過去なんだ。五十年ほど前、この辺りに新幹線が通る計画があったんだよ。交通の便が良くなれば人の往来も増えて町も潤う。この町の人たちは大歓迎だったが……計画は頓挫した」
「どうしてですか」
「誘致に積極的だった政治家が失脚したんだ。期待が高かった分、当時の人たちは相当な落胆ぶりだったらしい。すると、間もなくして町に陽炎が浮かぶようになったと言われている。あれらは町の人たちの無念や後悔が形になったものなんだ」
 お義父さんは淡々と語る。ありえない、と言いたいところだけれど、私はそれを実際に体験していた。
 その時、お義母さんが前のめりになって私の手を握りしめた。
「みほさん。もしこの町で暮らすことになったら、覚悟は必要だからね。あの陽炎は今ここにいる人たちの想いさえも反映してしまっている」
 私の手を握る力が強くなる。
「夏の間だけのこと。でも、それと向き合うのを耐えられない人もいる」

     〇

 大樹の実家を後にし、駅へ歩いている最中に彼が言った。
「やっていけそう?」
「大丈夫じゃないかな。大樹のご両親と相性は悪くなさそうだし――」
「そうじゃなくて、この町でやっていけそうか、ってこと」
「それは……」
「マラソンに未練が無いなら、この町でも生活できると思う。けどまだ心のどこかで燻(くすぶ)っているなら、きっとしんどくなる」
 大樹は真剣なまなざしだった。
 私にとって、走るということ。それは人生そのものだった。
 物心つく頃から走ることが大好きで誰よりも早かった。中学生になって陸上部に入部すると、長距離走にのめり込んだことがその後の進路を決定づけた。
 大学生、社会人になってからも走り続けた。二十三歳の時、初めてオリンピックの代表選考を争う位置までつけることができた。そして大一番のレース、独走状態のままゴールまで残り三キロのところで、右膝の靭帯が断裂しリタイヤとなった。
 こうして、私の競技人生の幕が下りたのだ。
「悔いはあるけれど、夏の間だけなら我慢できそうだよ」
「そんな生半可なものじゃないけど」
「もしかして、大樹の陽炎もいるの?」
 大樹は表情を変えずに無言を保った。
 彼は二十代半ばまで俳優を志していたらしいが、詳しいことを話してくれない。現在は会社員として実直に働いており、私たちの住む家にその名残は一切ない。
 駅に近づくにつれて陽炎が増えてくる。栄えた商店街の町並み、整えられた道路、行き交う人々――これら全てがありえたかもしれない未来なのだろう。そして、私の陽炎もいるのかもしれない。
 賑やかに見える寂れた駅前を通りすぎて、無人駅に入っていく。ちょうど来た電車に乗り、シートに座って外を眺めていた。
 向かいのホームに一人の男性――大樹が立っていた。この町に似つかわしくない小洒落たスーツを着て、その表情は自信に満ちている。電車が動いて駅から遠ざかり始めると、ホームの大樹の姿がゆらりと揺れた。
 隣に座る大樹は頑なに駅を見ようとしなかった。

  〇

 二週間後、私は再び大樹の故郷を訪れた。一人での来訪だった。
 家に戻ってから様々な考えが巡った。大樹はいずれ故郷に戻りたがっている――このことについては、彼と話し合っていたから異論はない。問題はあの町に移住した場合、自分の悔いと向き合った時にどれくらいストレスを感じるか想像できない点だ。
 だから自分の陽炎を見に行くことにした。そのことを大樹に伝えると一緒に行くと言ってくれたが、やんわりと断った。
 九月中旬、まだ夏は盛りで、入道雲が空にのさばっている。私は電車を降りて駅舎のベンチに座った。自分の陽炎と出会えるかどうかは運次第らしいので、一旦、駅前の様子を観察することにした。
 しばらく眺めていると、すぐに陽炎とそうでないものが見分けられるようになった。まず影の有無、それから陽炎の微かな揺らめき。私でさえ見分けられるのだから、この町で暮らしている人たちならば見間違えることもないのだろう。
 すぐ近くを若い女性が通りすぎた。大きな丸眼鏡をして三つ編み、沢山の本を抱えている。その陽炎はきらきらと輝く瞳を前にだけ向けて、弾むように歩いている。今のは若い頃のお義母さんに違いなかった。
 気が滅入ってくる。こうやって自分の悔いを見せつけられるのだ。運悪く自分の陽炎と出会ってしまえば、心の奥底にあるわだかまりと向き合うことになる。
 悔いのない人生だった、と心から思える人はどれだけいるのだろう。皆、大なり小なり後悔という傷を抱えながら歩いている。今の私だってそうなのだから――。
 その時だった。
 一人の女性が目の前を通りすぎた。サングラスとスポーツウェアを纏(まと)ったその人はあっという間に視界から消えていく。
 私の陽炎だった。駅舎を出て後を追いかけて走る。引退後もリハビリを続けて走れるまで回復はしたけれど、全盛期には程遠い。徐々に引き離されていったが、辛うじてついていくことができた。
 駅から少し離れて坂道を登っていくと、小学校のグラウンドに到着した。陽炎は淡々としたペースでグラウンドを走り続けていた。
 胸が苦しい。いざ自分の陽炎を直視すると、自分の中にある悔いが浮き彫りになる。引退を決意した日の悲しみや怒りが込み上げてきた。それが痛くてたまらない――。
「うわっ、早! 見たことない人だ!」
 元気な男の子の声が響き渡る。私がそちらを見ると、二人の男の子が校舎からグラウンドに駆け出していた。
 男の子たちは私の陽炎の後を追って走る。ペース配分などなく全力で走るものだから、一時は陽炎より早いけれど、すぐに追い抜かれてしまった。
 片方の子はすぐに諦めてしまったが、残った子は走り続けた。距離が離れてしまってもなお、追いすがる。やがて息が切れて足が止まっても、すぐに前を向いて走り始めた。
 あの陽炎は私の悔いそのもの。生涯を終えるまでに消える傷かどうかも分からない。
 けれど、誰かがあの陽炎を追いかけて走って、それがいつか誰かの遠い未来に繋がってくれるのなら。
 気づけば胸の痛みは少し軽くなっていた。夏空はよく晴れていた。