「最後の場所」庄司卓

 目が醒めたが、起床時間はまだだ。俺は布団にくるまったままの姿勢でいる。そのまま待つこと30分余り。ようやく起床時間になった。
 午前6時。けたたましい起床ベルが施設内に鳴り響く。
「起床時間! 全員起床!! 点呼開始!」
 職員がそう声を掛けながら房内をかけずり回る。30分前から起きていたが、俺も起床時間に合わせて布団の上に起き上がる。起きて最初にやる事は、常に携帯が義務づけられているIC付きタイムカードを枕元のICカードリーダーに読み取らせること。
 そして正座の姿勢で点呼を待つ。
「5229番! 起床確認。体調に変化は?」
 鋭い口調でそう確認される。俺は答えた。
「はい、変化有りません!」
「5229番、異常なし!」
 そう言うと職員は隣の房へ向かった。この点呼だけで15分程度は掛かる。その間、入所者は布団の上に正座したままだ。正座できない人間は体調が悪いと見なされて検診に回される。
「310区画全員異常なし! 洗面開始!」
 職員のその言葉で、入所者は順番に房を出て行く。行く先は洗面所だ。職員から薄っぺらいフェイスタオルと歯磨き粉付き歯ブラシを受け取る。そして5分以内に歯磨きと洗顔を終える。
 洗面が終わったら、そのまま所内の食堂へ。ここでも入室の際にタイムカードを読み取らせる。そしてテーブルの番号札を目印に自分の席へ着く。
 男たちはテーブルに着いたまま無言で次の指示を待つ。この施設では自分の判断で行動してはいけないのだ。
 全員が洗面を終えたタイミングで職員がまた指示を出す。
「配膳開始!」
 配膳と言っても他人が配膳してくれるのではない。番号順にカウンターへ向かい、自分の分の朝食が載ったトレーを受け取ってくるのだ。
 カウンターは二カ所あるので、二列に並び食事を受け取る。受け取って自分の席へ戻っても、すぐに食べ始めてはいけない。これまた職員の指示を待つのだ。
「朝食開始!」
 手を合わせていただきますという者、いきなり食べ始める者、さまざまだ。共通しているのは皆、無言。私語は禁止されている訳ではないが、誰も喋ろうとはしない。
 もくもくと朝食を摂る。まぁまぁバランスの取れた日本食といっても良いだろう。
 トレーには薄くぬるいほうじ茶が用意してあるが、飲み終えても自分でお代わりをもらいに行ってはいけない。挙手すれば職員がヤカンやポットを持って注ぎに来てくれる。
 男たちが無言のまま一斉に食事を摂る様は、見ようによっては異様かも知れないが、口べたな人間には有り難い。そして俺も口べただ。それに口は災いの元とも言う。うかつな事を言って、集団生活の中で孤立するよりはよっぽどましだ。
 食事時間は俺たちみたいなジジイたちからみても、充分過ぎるくらいに長めにとってある。塩鮭と納豆、焼き海苔、麩の味噌汁に白菜の浅漬けというメニューでも、中には1時間かけて食べ終わらない入所者もいるのだ。しかし大抵は30分も掛からず食べ終えて、あとは食堂内にあるテレビを見ているか、お茶のお代わりを貰って時間を過ごす。
 朝のリラックスタイムではあるが、同時に緊張感もある時間帯だ。
 職員数人が食堂の隅でなにやら打ち合わせしている。手にしたタブレットで何かを確認すると入所者の方へ歩いてきた。
 これが緊張の原因、各種通達がある時間帯なのだ。誰もが職員が俺の所へ来たらと怯えている。幸い職員は俺の後ろを通り過ぎ、二つ三つ先のテーブルに座る老人へ声を掛けた。
「ありゃ、近藤の爺さんか。悪い人じゃなかったんだけどな……」
 俺の向かいに座っていた男が爪楊枝を使いながらそう言った。
 近藤の爺さんは、ここから見てもすぐ分かるくらいに動揺していた。
「いや、まさか! そんな話は聞いていない!」
 職員はそう言う近藤の爺さんを必死に説得している。
「決まりですから」「我々だっていつまでも貴方を置いておく訳にはいかないんですよ」 近藤の爺さんはそう言う職員の一人を突き飛ばした。残った職員が右手を挙げると、屈強な職員も駆けつけてきて、近藤の爺さんを押さえつけた。
「離せ! 離せ!! 何をする! 俺はまだいきたくない! いきたくないんだ!!」
 屈強な職員二人に、両脇を抱えられて近藤の爺さんは食堂から出されていく。爺さんの手から落ちたカードを職員が拾いあげ後を追っていった。
「あ~~あ、ああはなりたくないねえ。最後くらいは大人しく……」
 目の前の男がまたそうつぶやくと、他の入所者から睨まれて口をつぐんだ。
 俺も別に近藤の爺さんとは親しかったわけではない。目の前の男がつぶやかなければ、名前さえ思い出せなかったくらいだ。しかし別れの挨拶くらいはしておきたかったなと思う。
 今日は近藤の爺さんだけだったようだ。もっとも明日は我が身というのは皆同じ。近藤の爺さんの姿には、テレビを見たり茶を飲んでいた入所者たちも、ちょっと落ち着かなくなっていた。
 職員はこんな時でも特段注意をする訳でもない。予定通りに進めるだけだ。
 朝食が終わると希望者のみ検診の時間。あるいは朝の点呼で、職員が異変異常を感じ取った入所者も検診を受ける。俺はそのどちらにも該当しなかったので、午前の作業に向かう事になった。
 作業所へ入り規定の軽作業。作業所に入る時も、カードで入退出を管理している。このカードが所内での俺の行動を逐一管理しているわけだ。
 軽作業といっても木工細工で予めカットされた木片を接着剤で貼り付けていくだけだ。それでも手先を使う作業なので、そろそろ認知症も気になってきた俺のような年代には有り難い。誰かに強制されない限り、絶対に自分からはやろうとはしないだろうからな。
 作業中に勝手に歩き回ったり、無駄口を叩いて注意が散漫になると怪我につながるので、この間は明確に私語は禁止だし、移動する時は職員に許可を求める。トイレは許可があれば一人で行っても良いが、それ以外の場所は職員が同行する決まりになっているのだ。
 作業開始は9時からで10時半には10分程度の休憩。そして昼食までまた作業だ。
 昼食はまた食堂。食事内容が変わるだけでやる事は朝食と同じだ。
 午後は再び作業の時も有るが、今日はレクリエーションの日だ。
 昼食を終えると所内の施設で軽い運動をする。もっとも所内の施設といっても、屋外に広いグラウンドが有るわけでも無い。内庭みたいな場所だ。床は転んでも怪我をしないようにゴム張りになっているが、周囲は建物に囲まれている。天井は無いが、一応、屋外でも結構な圧迫感がある。無論、内庭へ出入りする時もカードをリーダーに通す。
 そんな内庭だ。球技は出来ないし、走るとしてもそれほどの広さはない。せいぜい皆で決まった場所をうろうろしているだけだ。まぁ散歩のような感じだ。もっとも屋外の散歩とは違い、交通事故の可能性はないし、走れないので勢いよく転ぶこともない。職員が常に監視しているので、何か有ればすぐに駆けつけてくれる。
 この間、私語は禁止されていないが、おしゃべりをしている人間も居ない。そもそも会話が弾むようなネタも無い。食事中に見るテレビもニュースが主。長い事、所内にいると政治や経済にも疎くなる。だからといって、他に話すことはない。せいぜいが煙草が吸いたい、酒が飲みたいという愚痴だ。
 喫煙、飲酒は特定の時間、場所以外では禁止だ。共通の話題となれば、それくらいしかなく、愚痴ってしまえば、そうだねと相づちを打つだけで終わってしまう。
 そうして夕方まで内庭をうろうろしてレクリエーションの時間は終わる。そして今日は入浴がある。無論、内庭を出る時にもカードを通し、入浴の前にもカードを通す。
 入浴は週に二回。当然、ゆっくりと足を伸ばす余裕はない。髪と身体を洗い、人に寄っては髭も剃る。それを20分余りでこなさないといけない。当然、慌ただしい。もっとも施設側に言わせると、長風呂をさせると身体にも負担が掛かり、脳溢血(のういっけつ)などの恐れがあるからだそうだ。
 さっさと風呂を済ませると、就寝前の自由時間。もっとも自由時間といっても本当の意味での自由ではない。当然、施設外に出る訳にはいかない。飲酒、喫煙も出来るが、許可がおりた入所者のみ、決まった場所で職員の管理下でのみOKとなる。俺はかなり前に煙草も止めたし、酒はもともと強くない。すぐに悪酔いするタイプだ。逆に言うと施設内にいれば、酒を断る理由が出来るという訳だ。
 それ以外の入所者は施設内の図書室で本や新聞を読んだり、あるいは音楽を聴いたりも出来る。もっとも蔵書はかなり古いし、予め読みたい本を申告しなければならないので、どうしても億劫(おっくう)になる。
 プロレス、プロボクシングやプロ野球をはじめとするスポーツ中継を、テレビで見られた頃もあったと言うが、贔屓(ひいき)の勝敗で入所者同士が揉めたので中止になったと聞いている。他にやる事と言ったら、娯楽室とは名ばかりの何もない部屋で、唯一の調度品であるオットマン付きの椅子で足を伸ばすくらいだ。
 なんにせよ就寝前の貴重なリラックスタイムだ。
 そして就寝となる。職員の呼びかけで自分の房へ戻る時にもカードを通す。
 全ての房は一人用。布団を敷くだけで一杯だ。布団を敷くスペース以外は、ちょっとした小物を置く小さな机と壁掛け時計、非常用呼び出しボタン。そしてトイレがあるだけだ。トイレの周囲は一応、隠れるだけの囲いがある。
 当然、布団は自分で敷く。21時には房に戻り床に入る。そして22時には照明も消されて完全消灯、就寝時間。翌朝6時の起床まで8時間の睡眠となる訳だ。
 眠れない場合は1時間ごとにカードをICカードリーダーに通す。無理に起きて通す必要は無い。睡眠時間を記録する為だからだ。
 むしろ眠くなくとも眠らなければならない。どうしても眠れない場合は、施設の医師から睡眠薬を出して貰えるが、その場合は予め申請して、医師の前で服用しなければならない。医師との面談も当然、カードに記録される。
 今日は眠れそうだ。俺は程なくして深い眠りに落ちた。

 次の日は起床時間のちょっと前に目が醒めた。布団にくるまったまま、今日の予定を頭の中で確認する。確認するといってもやる事は分かっている。
 洗面、朝食、午前の軽作業。昨日と違うのは、今日はレクリエーションの時間が無く、午後も軽作業がある事だ。もっともやる事は午前の作業と同じ。
 そうだ。ずっと同じ作業の繰り返しだ。そして作業の度にカードを押す。これが死ぬまで続く事になる。作業、カードを通す、作業、カードを通す、寝る。起きる、カードを通す。その繰り返しだ。
 そう考えていると起床ベルが鳴った。俺は布団の上に身を起こして点呼を待つ。
 洗面を終えて朝食の為、食堂へ向かう。今日も昨日と同じような食事だ。
 食事を終えてお茶のお代わりを啜っていると、職員がこちらの方へ歩み寄ってくるのが目に入った。
 今日は誰だ? 隣の禿げか? その向こうの厳(いか)ついマッチョか? 他人事のように思っていると、職員が俺の横で足を止め、顔を近づけてくる。
 え……!? さすがに一瞬、動揺は隠せない。俺か? 俺なのか!? いや、そんなはずはない。そんな話は聞いていないぞ!
 昨日の近藤の爺さんと同じような反応になってしまう。
 そんな俺に職員は耳元で囁いた。
「中村さん、ご家族の面会です」
 面会という言葉にほっと胸をなで下ろす。面会時間は午後からが多い為、油断していた。娘だろう。仕事があるので面会に来るのは、いつも出社前の午前中なのだ。
「今から大丈夫ですか?」
 そう問う職員に、残ったお茶を飲み干し俺は頷いた。ついでに聞き耳を立てていた、対面の男にも小声で伝えた。
「面会だってよ」
 昨日と同じく楊枝を使っていた男は苦笑を浮かべた。
「いいねえ、面会に来てくれる家族がいるって言うのは」
 俺も苦笑を浮かべながら、職員に促されるまま席を立った。食堂から出る時にもカードをリーダーに通した。

 娘の弘美がテーブルに何冊ものパンフレットを広げた。そのどれにも立派な施設や風光明媚な自然の光景が印刷されている。しかし俺にはまったく心動かない。
「どう、お父さん。こういうの。こっちは24時間完全看護、こっちはマンション式で自由に出入りできるのよ」
「う~~ん、俺は今のここが一番いいんだがなぁ」
 しかし娘はそんな事は聞いていない。勝手に話を進める。
「ここはお母さんが入っていたのと同じ系列の施設よ。何かと過ごしやすいんじゃないの?」
 妻は数年前に心不全で他界している。もともと病弱だった事も有り、介護施設に入っていたのだ。
「しかしなぁ。母さんは施設に入ってから認知症が悪化しただろう? 俺はそれを見てきてるんだ。それを考えるとなぁ」
 そうだ。妻は介護施設に入ってから急激に認知症が悪化したのだ。少なくとも俺にはそう見えた。
「お母さんは最初からあんまり人と打ち解けないタイプだったじゃないの。お父さんはそういうの大丈夫でしょ? それならこういう施設で、人と交流した方が、認知症になりにくいだろうし、老後も充実するでしょ?」
 そう言いながら弘美は介護施設のパンフレットを俺に指し示して見せた。
 確かに妻は余り人付き合いが良いタイプでは無かった。少々認知症の傾向が見えた時、これはまずいと嫌がる本人に構わず介護施設へ入れたのだ。
 俺はこれが失敗だったと思っている。ただでさえ人見知りの激しい妻は、介護施設の合同リクリエーションや行事に馴染めず、入居者同士はもちろん介護の職員さんとも壁を作っていた。
 それが認知症が悪化した原因じゃないのかと、俺は推測しているのだ。無論、素人考えの勝手な推測だ。間違っている可能性も高いし、俺の思い込みかも知れない。
 でも俺自身がその間違いを繰り返さないのが、妻への供養ではないかとも考えるのだ。
「ここは脳トレも自分のペースで出来るのよ。この施設がやっている、刑務所のようなガチガチのルールに縛られたやり方じゃないの」
 弘美は力説する。確かにその施設のパンフレットを見ると、自由で楽しい老後、暖かい毎日と|謳(うた)っている。美しい言葉だ。しかし俺には空虚な美辞麗句にしか見えなかった。
 俺は言った。
「しかしな、弘美。俺は40年ほども会社員として、毎日毎日、他人から決められたスケジュール通りで生きてきたんだ。今更自由にしようと言われてもな。そんなになったらお父さん、それこそぼけちまうよ」
 笑う俺に娘は言った。
「だからといって、わざわざこんな刑務所同然の介護施設に入る必要なんてないでしょ? みっともないわよ」
 そうだ。俺が自分で選んだ介護施設は、自由など無く、毎日を決まり切ったルーティーンで過ごすだけの施設だ。最初は際物扱いだったが、俺のような元会社人間、いや今風にいうと元社畜には受けが良く意外と盛況。今や入居待ちが引きも切らず、料金を滞納している利用者は、昨日の近藤の爺さんのように、強制退去もしくは転居になってしまうのだ。
「良いんだよ、みっともなくて。ずっとみっともなかったんだ。最後の場所もみっともなくていいじゃないか」
 ずっと自由なんてなかった。楽しくなんて無かった。最後になって思い出したように、自由を楽しみましょうと言われても、残された少ない時間でどうすればいいんだよ。
 俺は最後までどこかの誰かに決められたルーティーンで生きるんだ。
 俺はIC付きタイムカードを娘に示した。
「ここに入所してから毎日、このタイムカードを押している。俺の行動はここに全て記録されているんだ。これが俺の全てなんだ」
 俺の言葉に娘は表情を曇らせた。
「お父さんの人生って、そんなカード一枚に記録できる程度のものなの?」
「誰の人生だってカード一枚に収めようと思えば収められるだろう。そんなものだよ」
 俺は笑った。