「愛しき創造物」イーゴリ・アントニュク

愛しき創造物
Улюблене створiння

イーゴリ・アントニュク
Iгор Антонюк

訳:大野典宏

これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
――創世記。十九章二五節(新共同訳聖書)

 教授は眼鏡をかけ、疲れ切った様子で出口へと向かった。
 彼の目は充血していた。喉に違和感があった。めまいを感じていた。
 スクリーン上では赤い光がちらついていた。それらは絡み合い、飛び交っていた。メッセージやオンラインでの命令が次々と届いていた。警報音が甲高く鳴り響いていた。部屋は濃いタバコの煙で満たされていた。立ち込める煙は、まるで壁のようだった。
 机の上で、教授は自分のパイプを見つけ、灰を落とした。素早く拭き清めると、ポケットに滑り込ませた。鮮明な記憶が蘇った。閃光。死体の、まるで漆塗りのような皮膚表面に刻まれた銘文。
   「……神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。(訳注:創世記。一章三一節)
 上層部からの賞である贈呈品。
「死後の受賞の方が良かったな」。教授は弱々しく微笑んだ。
 それから彼は、ネーム入りペンと革のノートをブリーフケースにしまった。いくつかの事務用品。父の遺品、機械式腕時計。書類の山。シワだらけで黄ばんだ書類。コーヒーの染み。タバコの焦げ跡。秘密。極めて重要なもの。
 重要とは、もちろん自身のためではない。彼が仕えた、呪われた国家のためだ。人間の感情を糧とする、魂なき機械的な悪魔だ。涙と苦しみ。そして最も尊い命。その代償として、勲章、国家の栄誉、最高位の地位など。その裏側にあるのは、壊れた人生、車椅子、亜鉛の棺。死体で埋め尽くされた土地。十字架が立ち並ぶ土地だ。
 教授は机の前に座り、鈍い音を立ててブリーフケースを置いた。その鈍い音は、銃声のように虚空に響き渡った。彼は引き出しからグラスを一つ取り出した。酸性の液体を半分ほど注ぎ、一気に飲んだ。
 彼は目を閉じた。指で目を覆った。そして泣いた。もはや彼は誰をも信用していなかった――指導部も、約束も、メッセージも、前線からの報せも、将軍たちからの「忠実な奉仕」への感謝状さえも。そして何より、彼は自分自身を信じていなかった。
 「自分の息子の命を、他の何千人もの命と引き換えにできるものか!?」
 頭がくらくらした。胃が痛む。指が額に深く食い込み、跡を残した。手が震えた。彼はグラスに口を付けた。液体が再び喉を焼いた。全身に鳥肌が立ち、やがて力が抜けた。忘れ去るという、つかの間の効果。
 一瞬の後にグラスは壁に激突し、無数の破片へと砕け散った。彼は重い視線を机へと向けた。まるで何かを探し求めるかのように。彼の視線は物体に留まるが、目の前の空間は歪んで見えた。彼はひび割れた鏡を想像した。そこではガラスの破片が、彼の人生の断片を映し出していた。彼は完全に理解した。真の現実は、血で染まっていたのだ。
 彼は茶色の額縁に入った写真をしばらく見つめた。息子は六歳になった。子供っぽく笑っている。妻が自ら彼を学校へ連れて行った。彼は、いつものように仕事で足止めされ、最初の学校行事を逃してしまった。彼が軍を離れたのは、それから十年も経ってからだった。彼は妻と自分自身に、これが永遠だと誓った。悲しいことに、そうはならなかった。古いフィルムリールのような記憶が、彼を噛み砕いた。視界がぼやけた。
 教授は視線を、日本製の賢い猿の置物へと移した。彼は四匹目の「知らざる」をコンクリートの壁に叩きつけた。それは粉々に砕け散り、消え去った。次に二匹目。三匹目、四匹目。まるで彼を嘲笑っているようだった。笑い、歓喜し、大きな歯をむき出しにしている。
 すべてがひっくり返った。足元の地面が崩れ、彼を泥沼へと引きずり込んだ。現実は歪んでいることが証明された。逸脱者。彼は守護者ではなく、悪の産物だった。彼の一生の業は国家を滅ぼした。
「平和とは戦争のことですか、オーウェルさんよ?」
 彼は一線を越えた。歯を食いしばり、自らの信条を飲み込んだ。妻は戻らないでと懇願した。行き止まりの道へ迷い込まないで。行かないで。彼女のために。息子のために。暗闇からの脱出路はなかった。
「息子のために」と彼は呟きながら、政府の仕事に戻った。極秘裏に。マスコミやテレビで大々的に発表することなく。最良の口実――農業のための生化学の新たな進歩に関するコンサルティングだ。彼は契約書、つまり秘密保持契約書に署名した。
「妻を救うために」。彼はかつての国家防衛プロジェクトを再開させた。「彼の創造物」の使用を許可した。彼らは平和目的だと言った。だが彼はよくわかっていた。戦争なくして戦争はあり得ないのだと。
「彼らの命のために」。指導部から家族を守るという、疑いようのない約束。たとえ戦争が長引こうとも。たとえ双方が完全に疲弊しようとも。たとえ……。
 彼は国家の希望だった。ナノテクノロジー分野で世界的に著名な科学者。最先端の生化学兵器における第一人者。「ホースメン」の生みの親(訳注:ホースメンとは黙示録に出てくる、世界の終末に現れる存在)。教授はブリーフケースを持ち上げた。疲れ果てた様子で、その中に写真を放り込んだ。ほとんど意識を失いかけており、絶望の淵にありながら、彼は前に進んだ。駅の空虚で生命の気配のない廊下を抜け、出口へと向かった。
 避難は前日に行われていた。書類は破棄され、すべてのコンピュータ機器は一つ下の階で爆破されていた。最後の駅職員が敷地を離れたのは、約三時間前のことだった。すべてを完全に無菌化する必要があった。痕跡も、証拠も、例外も許されない。時に、勝利の亡霊はニュルンベルクへの切符となるのだ。(訳注:ニュルンベルクはナチの結党大会が開催された都市)
 彼のオフィスには手つかずのものが残されていた。信号、メッセージ、通話。最新の情報。完全な浄化を確認する信号。作戦開始の信号。終わりの始まり。破壊の始まり。死。彼だけが残った。船長は常に最後に船を去るものだ。
 エレベーターがゆっくりと彼を上に運んだ。衛星電話が鳴った。地表まであと数メートル。彼は出なかった。彼の瞳は曇っていた。彼は熱に浮かされていた。教授は、外で風が吹き荒れていることなど気にも留めなかった。雲が荒れ狂っていた。今にも嵐が始まろうとしていた。乱れた胸元に白い白衣。擦り切れた黒いズボン。ネクタイは、木に投げかけられそうな一本のロープのようだった。電話が再び鳴った。応答はしない。
 教授は超音速機「ブラックバード」に近づいた。紺色の機体を撫でるように手を滑らせ、コックピットを開けた。パイロットスーツを取り出し、しばらく手に抱えた。手で視界部分を拭った。自分の映る姿を見つめた。彼の顔は暗く曇った。その目は血の塊のようだった。
 「白衣の邪悪な天才」。人類の衰退を描いた、言葉にされない伝記。
 彼はパイロットスーツをできる限り遠くへ投げ捨てた。
 電話が鳴った。また鳴った。そしてまた鳴った。
 男は電話機を取った。画面が点滅した。相手が誰なのか、疑う余地はなかった。妻であってほしいと願った。息子であってほしいと。たとえ呪われた一分間だけでも。一瞬だけでも。彼はもう一度、弱々しい笑みを浮かべ、受話器を耳に当てて応答した。
「ご機嫌よう、大統領閣下」。明瞭で、何気ない口調だ。
「声を聞けて嬉しいよ、アーサー」。雑音さえも、電話の向こうの心配を隠しきれなかった。「なぜすぐに出なかった? 何かあったのか?」
「聞こえなかったんだ」。教授は嘘をついた。「用事もあった」
「報告によると……」。強風が言葉を切り裂いた。「……全員脱出したそうだ。痕跡は消したか!?」
「可能な限り、です!」
「君を疑ったことなど一度もない」。大統領は続けた。「国は君を誇りに思うだろう」
「妻と息子はどこですか?」。教授が言葉を遮った。
 沈黙が訪れた。ただ風だけが、理解不能な音を周囲にまき散らしていた。風が戯れていた。
「妻と息子はどこですか?」男は弾丸のように繰り返した。「彼らはどこに……」
「安全な場所に、保護下で……」
「嘘だ」。彼の声は引き裂かれたように響いた。
「彼らは保護下にある。最高の護衛が見守っている……」
「妻と息子はどこですか? どこにいるのかと聞いています? 約束しましたよね」。その言葉は金切り声のように響き、叫びへと変わった。「あの忌々しい誓いを立てたんです」。この言葉は、この呪われた国の大統領の言葉だ。彼は黙り込み、息を吸った。いつもの会話は、傷つき追い詰められた獣の咆哮へと変わった。「どこにいるんですか、答えてください!?」
 受話器の向こうからは、沈黙だけが返ってきた。
 空がちらつき始めた。爆発音とともに、銃声が響く。
「見つからない」。重い息遣い。大統領は、まるで法廷で判決を下すかのように、間を置きながら、ゆっくりと次の言葉を紡いだ。「彼らを見失った。だが約束する……誓う、我々は……」
「『ソドム』への攻撃から、まだ十二時間も経っていません」。教授は叫んだ。「一日前、『ゾアル』は塵と化したんです」
 男は、目に塩気が込み上げてくるのを感じなかった。
「その二日前、半島が裂け、『セヴォイン』は黒海に飲み込まれました。飲み込まれたんです、聞こえますか? 『アドム』はさらに早くに埋もれました」
 彼の脳裏には、あのすべての都市、家々、そして人々の姿が走馬灯のように駆け巡った。そして、それらが深淵に飲み込まれていく光景。パンドラの箱から怪物たちを解き放ったのは、他ならぬ彼だった。「ホースメン」。
「十一日間で世界が滅びました。戦争は終わったんです、大統領、貴殿の勝利です」。金属片が喉の奥に突き刺さるような感覚だった。
「残っているのは『ゴモラ』だけだ。灰色の帝国の心臓部だ。ボタンを押せば、すべてが終わる……戦争は終わった。聞こえるか? 聞こえるか?」
 続く言葉の一つひとつが、新たな試練のように感じられた。
「……妻と息子の声を聞くまでは……」。うめき声を出した。「辞任する……」。彼はかすれた声で続けた。「この作戦の今後の行動については、私は責任を負わない」
 一秒。二秒。三秒。背筋を冷たい戦慄が走った。
「私は手を引く」。疲れ果てた男はそう付け加えた。
「アーサー、シヴォとコズロドゥイが爆撃された」。大統領はかろうじて聞こえるほどの声で囁いた。「君の妻と息子はポワティエで保護されていた……アーサー、私は全軍をそこへ送った……精鋭を……アーサー、街は廃墟と化している」
 男は凍りつき、感覚が麻痺した。まるで時間がその歩みを緩めたかのようだった。完全に止まったかのようだった。
「……信じられない……
「彼らの居場所を知っていたのは私だけだった……」。雑音が激しくなった。「特別捜査官が直接情報を伝えたんだ。ただの偶然、まぐれな事故にすぎない……」
「信じられません、嘘をついていますね」。教授は自制心を失った。「あなたがたは最先端の大陸間迎撃ミサイルを保有している。そんなことがあり得るのですか?」
 大統領は答える前に一瞬ためらった。
「聞いているんです、一体どうやったらそんなことが可能なんですか?」
 一秒。二秒。三秒。
「奴らは君のホースメンを使ったんだ!」
「それはありえない、ありえない!」。男は怒鳴った。「ホースメンを制御できるのは政府だけだ……」
「アーサー!」
「私が開発したんだ……私が生みの親なんだ……」
「アーサー、聞こえるか、アーサー!」
「ホースメンは平和のために作られたんだ……平和を守るために、決して……」
「調査は進められている」。大統領の声が小さくなってきた。「我々の側の人間が、彼らにナノ弾頭を数個売ったんだ。誰かが我々を裏切った、聞こえるか、アーサー……裏切ったんだ」
「平和を守るために、平和を守るために……」。 彼の携帯電話は手から滑り落ち、床に落ちた。
 彼の手は力なく垂れ下がった。左右に揺れ動く。まるで二本の切り落とされた枝のように……幹はとっくに内側から腐り果てていた。彼の足は鉛のように重くなり、石の塊と化した。背中が痛んだ。頭がくらくらした。世界は煙に包まれた。
「ホースメンは平和維持のために、平和維持のために……」
 男は、たった一曲しか収録されていないレコードのように、その言葉を繰り返した。思考は絡み合い、潜在意識の回廊を駆け巡った。鼓動が鳴り響く。彼は現実に戻ってきた。吐き気がした。よろめき、這い上がった。何度も転び、立ち上がる力さえ残っていなかった。前に進む意味などない。彼は両手で地面を掻きむしった。顔を拭った。血が出るまで胸を引っ掻いた。
 丘の頂上に、一人の老人が座っていた。男は静かに近づき、その隣に座った。一言も発しなかった。沈黙が叫び、痛みと共に轟いた。風が吹き抜けた。雷鳴。稲妻。
 数秒が何世紀にも感じられた。誰も口を開かなかった。まるで二人が、世界の終わりを目撃するために墓から蘇った二人の亡霊であるかのように思えた。黙示録だ。
 沈黙を破ったのは、後から来た男だった。教授であり、男であり、父親である。彼自身はそうは思っていなかった。自分は殺人者だと。
「なぜ神は、こんなことを許したのか?」。そして彼は言葉を詰まらせた……。「なぜ神はこれを止めなかったのか? なぜ天から雷鳴を轟かせて降りてこなかったのか?」
 長老は黙ったままだった。
「なぜ神は天の軍勢を総動員しなかったのか? 楽園の天使たちすべてを……」
「しかし、善悪を知る木の実については」。長老が口を開いた。「それを食べてはならない。それを食べたその日、あなたは必ず死ぬ」
「なんて馬鹿げた話だ……選択の自由とは」。男は泣き崩れた。「神が人類に与え得た最も恐ろしいもの。それが選択だ。最悪の呪いだ」
「そして、神の限りない愛の最大の証でもある」
「これだけのことがあった後でもか!?」。彼は長老を見つめた。「これほどの破壊、何世紀にもわたる同胞殺しの戦争と流血の後でも、神はなお私たちを愛しておられるというのか!?」
「神は私たちすべてを愛しておられる」。長老の瞳には、彼が求めていた平安が宿っていた。慰め。「そして神は赦してくださる……」
「なぜだ、長老よ?」。突然、周囲のすべてが静まり返り、時が止まった。「なぜだ?」
 大地は凍りついた。
「お前は、わが愛しき創造物だ……」
 稲妻が走り、雷が轟いた。
 天から雨が降り注いだ。丘の上に立ち、世界が滅びゆくのを見つめていた。
 深淵の只中に立つ、孤独な柱。

■初出:『誰もがコインを投げる』、ジョルジ出版

■著者紹介
イーゴリ・アントニュクは、ウクライナのイヴァーノ=フランキーウシク出身の作家、歴史家、講師。ウクライナの雑誌にホラーや超常現象を題材にした短編小説を発表し、デビュー作は短編集『松のささやき』(2018年)。最新作『誰もがコインを投げる』(ジョルジ出版、2024年)は、運命的な偶然と不可解な出来事を描いた話を集めた作品集である。