「母の猫」伊野隆之

 病院のベッドに横たわる母の顔は青白く、唇は紫になっていた。痩せて骨の浮いて見える母の手が、私の手をしっかりと握る。
「ごめんね、忙しいのに」
 重度の貧血で倒れた母は私が仕事を休んでいることを気にしていた。
「大丈夫よ。最近は休みも取りやすくなっているから」
 介護休暇の申請は済ませてあった。会社では責任のある立場ではなかったし、私が居なくても問題なく仕事は回していける。
「本当にごめんね。それから、ロッキーのことも……」
 ロッキーは母の猫だ。雄のサビ猫で、母が四十五歳、私が大学進学のため家を出た年にやってきた。あれから随分時が過ぎ、現在、母は八十四歳、私には大学に通う娘がいる。
「大丈夫よ。由佳が見てくれているから」
 私は母に嘘をつく。母が倒れたその日に、母の猫は姿を消していた。娘の由佳が首輪につけた追跡用のタグもなぜか役に立たず、由佳のスマホのアプリ画面には、ロッキーの位置を示すはずの輝点がなかった。
 それから二週間近くが過ぎている。
「あの子は本当に良い子なのよ」
 母はロッキーを溺愛していた。父が死んでから、いや、私が家を出てから、父が病気で倒れるまでの間も、ロッキーだけが母の家族だった。そのロッキーがいなくなった。
「ええ、分かっている。由佳がみているから大丈夫」
 母の肝臓には腫瘍があり、それが貧血の原因だった。入院中に手術に耐えるだけの体力を回復させるという主治医の説明だったが、母の食欲はめっきり落ちてしまっており、今では私にも抱きかかえることができるくらい痩せ細ってしまっている。病院から家に戻れるという保証はない。
「あの子に会いたい……」
 そう母が言う。
「元気になったら、すぐ会えるよ」
 母の手を握り返した私は、母が倒れる何日か前に見たロッキーの様子を思い出していた。
 毛艶が消え、足下もおぼつかなくなった高齢の猫。多分、もう帰ってくることはないだろう。

  * * *

 ロッキーは、私の家の庭に出入りしていた野良猫が産んだ猫だ。空き家になっていた隣家の解体工事が始まり、床下で子育てをしていたらしい母猫は他の子猫たちと供に姿を消した。たった一匹で残されていたのがロッキーだ。
 頼りなげに啼(な)く声に気付いた母は、隣家の敷地の隅で雨に濡れていた子猫を家に連れ帰った。
「うちの子になる?」
 そう声をかけた母に、子猫は小さく啼いて答えたらしい。
「この子、お話が出来るのよ」
 夏休みに帰省した私に、母はそう言った。
「なんでロッキーなの。犬みたいな名前じゃない」
 母は子猫を膝に猫を乗せたまま、拳を握ってファイティングポーズをして見せた。
「そゆこと?」
 私は思わずため息をついた。
「強い子になってもらいたくって」
 母が結婚前に飼っていた猫の話を思い出す。ルビーというその猫は病気がちで、七歳までしか生きられなかったという。
「元気すぎるんじゃない?」
 雨に濡れて震えていたという子猫は、今では元気すぎるくらい元気に育っていた。家の中を走り回り、食欲も旺盛だった。
「それくらいがちょうど良いのよ」
 そう言って母は笑った。
 大手の金融機関に勤めていた父は、仕事中毒としか言いようのない人だった。私が幼かった頃からずっと出張が多く、不在の時が多かった。私が進学で家を出る前から地方に単身赴任しており、私が居なくなった実家は、母とロッキーだけになったからだろう。母はロッキーを溺愛していたし、ロッキーも母に懐いていた。私はロッキーの家族ではなく、たまに帰省すると疑わしげな視線を向けられる。父も同じで、父が母と話しているといつも横から割り込んでくる。
「俺のことをライバルだと思ってるんだよ」
 ロッキーに懐かれることのなかった父の言葉だ。
 その父が病に倒れたのは私が結婚した翌年、ロッキーが家に来てから八年目のことだった。長年の無理が祟ったのか、定年退職まであとわずかだった父が、脳梗塞の発作を起こした。手術とリハビリ、介護が必要になった父に、母は献身的に寄り添った。
「ロッキーが帰ってこないの」
 突然の電話で母が言った。元々冒険心が旺盛で、今までも外に出て戻ってこないこともあったという。だから最初は気にしていなかった。それがもう一週間になる。
「だから室内飼いにしなきゃダメって言ったのに」
 東京と地方の常識は違う。飼い猫でも自由に近所を歩き回れる。そんな時代だった。
「でも、私がいない間ずっと、家に閉じ込めるのがかわいそうで……」
 父の入院中、母が病院に泊まり込むこともあった。ロッキーが姿を消したのは、その合間のことだ。餌やりを頼んでいた近所の人が、餌が全然減っていないことに気づいたのだという。
「探すの手伝えればいいんだけど……」
 言葉を濁したのは、私のお腹の中に赤ん坊がいたからだ。つわりが重く、実家に帰っても役に立てそうもなかった。
「無理はしなくていいわ。あの子はきっと帰ってくるから」
 介護の合間に母はロッキーを探し続けた。近所に何枚もポスターを貼り、ちょっとした情報の提供があるたびに、なんとか時間を作ってロッキーを探しに赴いた。
「構ってあげられなかったから……」
 赤ん坊の娘を連れて帰省した時に聞いた、寂しそうな母の言葉を覚えている。けれど、父の介護と猫の世話を両立できたとは思えない。半身に麻痺が残り、自分の足で動けなくなった父は、朝の歯磨きから食事、入浴やトイレに至るまで、あらゆることを母に頼っていた。
「最初から無理だったのよ。自分を責める必要はないわ」
 私は、ロッキーがいなくなって都合が良かったじゃない、という言葉を、すんでのところで飲み込んだ。

 六年間の闘病の後、父が死んだ。六十代の早すぎる死だった。次男だった父には入るべきお墓もなく、一人娘の私の姓が変わっていたこともあり、散骨を望んでいた。
 慌ただしく葬儀を終え、父の遺体を焼く。がっしりとしていた父も、遺骨になってしまうと思った以上に軽かった。船を出して貰い、父が好きだった海で細かく砕いた遺骨と花束を流した。散骨に立ち会ったのは母と私、それに幼い娘の由佳だけだった。
「ロッキーが帰ってきたのよ」
 父を送ってから三日と経っていなかったろう。電話越しに聞く母の声は、久しぶりに明るく、弾んでいた。
「本当にロッキーなの?」
 ロッキーがいなくなったのは八歳の時で、母が父の介護につきっきりだった六年間を加えれば、十四歳になっている計算だった。飼い猫の寿命が長くなっているとはいえ、人間の年齢に換算して70歳。猫にしては十分に高齢だ。
「ええ、本当よ。帰ってきたの」
 母の言葉は簡単に信じられるようなものではなかったけれど、電話では適当に調子を合わせた。
 実際にロッキーを見たのは、それから半月後だ。サビ猫は、介護疲れのせいか、老いの気配を感じさせるようになった母の足下で、まっすぐに尻尾を立てていた。その様子は、私が覚えているロッキーそのままだった。
「ロッキーの兄弟の子供とかかもね」
 私がそんなことを言ったのは、母に寄り添う猫がまだ若々しく、どう見ても十四歳には見えなかったからだ。
「そんなことはないわよ。この子はロッキーよ。帰ってきてくれたの。ここを見て」
 そう言って母は腕の中にいる猫の額を指し示す。黒と茶色の毛に隠れてわかりづらかったが、そこには見覚えのある傷があった。
「偶然じゃないの?」
 若かったロッキーが、いなくなる少し前に近所のボス猫、立派な体格をした茶トラに突っかかって出来た傷だと母は言う。
「偶然のはずないじゃない。顔を血だらけにして、病院で三針も縫ったのよ」
 確かに同じような傷だったけれど、私は違和感を感じていた。その傷痕ははっきりとしていて、六年も前のものには見えない。けれど私はそのことを母に指摘しなかった。猫をロッキーだと信じ込んでいる母が良いならそれでいい。
「じゃあ、またママをよろしくね」
 そう声をかけると、その猫は、記憶の中のロッキーと同じように尻尾を立て、はっきりと返事をした。まるで僕に任せて、とでも言うように。

 父が亡くなって以降の、母とロッキーの暮らしは静かで落ち着いたものになっていたが、何かの用事で母が忙しく、ロッキーをあまり構えなくなると姿を消し、何日か戻らないというロッキーの行動パターンは変わらなかった。けれど、いつの失踪でも必ずロッキーは帰ってきたし、年をとるにつれて失踪の頻度は減っていたように思う。母はそんなロッキーの行動を、雄猫だから仕方がないというように受け容れていたように思う。いるときには甘え、構わないでいると姿を消す。そんなロッキーのことを、「猫だから」と一言で片付ける母だった。
 ロッキーは、やっと私を母の家族と認識したのか、それとも体臭に母の匂いを嗅ぎとったのか、私の存在を受け入れてくれるようになっていた。実家に顔を出すと私の脛(すね)に鼻を寄せ、匂いを嗅ぎ、身体をこすりつける。まるでちょっとした儀式のようで、大学に進学した由佳にも同じことをするようになった。
 その頃には、ロッキーの被毛に白いものがちらほらと見え始めていた。母の髪はもう真っ白だったし、私の髪にも白いものが目立つようになってきていた。
 父の三回忌のお盆の頃、私と娘の由佳が仏壇に手を合わせるために帰省していたときだ。また、ロッキーが姿を消した。二日ほど姿を見せなかったロッキーが、庭から家に入ってきたところを見た由佳が、母に言った。
「どこに行ってたのかしらね?」
「いつもちゃんと帰ってくるのよ。構ってあげられなくてごめんね」
 鷹揚にロッキーに声をかけ、手荒く背中をなでると、ロッキーは満足そうに喉を鳴らした。
 母に向かって由佳が言う。
「いい年のおじいにゃんなんだから、ちゃんと見ていてあげないと。野良猫もいるから、外は危ないわ」
 父の死後に帰ってきたロッキーが、本当にロッキーなら、とっくに一七歳になっているはずだったが、ご飯はよく食べるし、足腰に衰えは見えない。
「でも、今さら家の中に閉じ込めちゃうのはかわいそうで……」
「そんなことを言っていると、いつか帰ってこなくなっちゃうかもよ」
 由佳の言葉に母の表情が曇った。

 その翌週、由佳が首輪に付ける電子タグを買ってきた。
「これがあればロッキーがどこにいるか、いつでも判るよ」
 GPSで現在の位置がわかるし、どこに行ったかも記録される。
「ロッキーが嫌がらないかしら」
「大丈夫よ。私、付けてくるから」
 母は外出の多いロッキーに黄色い首輪を付けていた。首輪が大丈夫なら、その首輪に小さな電子タグを付けても大丈夫だろう。

「何歳までいてくれるだろうねぇ」
 お泊まりから帰ってきたロッキーの背中を撫でながら、母が言った。
「もうすぐ二十六歳よね」
 由佳が言う。最初にロッキーを拾ってから、父が死ぬまでで十四年、それからさらに十二年の歳月が経過していた。三十四歳という長寿記録には届かなくても、完全室内飼いの家猫の平均寿命とされる十六歳は優に超えている。人間の年齢に換算したら百三十歳になるのに食欲は旺盛だった。ただ、かかりつけの獣医さんが言うには腎臓の数値が悪いらしく、若い頃のように走り回ることはなくなっていた。
「ねえ、ちょっといいかしら」
 由佳がスマホを電子タグに近づける。いつもはGPSで居場所を確認するだけだけれど、タグ本体には移動履歴が残されている。
「どうしたの?」
 スマホの画面を見た由佳が首をかしげる。
「変なの。データに欠落がある」
 あるはずのデータがない。由佳が言うには、外に出ている間の移動履歴が存在していないのだ。
「どういうこと?」
 私は由佳に尋ねた。由佳が、スマートフォンの画像を見せる。
「記録では、出かけてすぐに帰ってきているようなの」
 まるで、家を出ている間の時間がなかったかのように、データが欠落していた。
「壊れちゃったんじゃないの?」
 私の言葉に由佳は首を横に振る。
「この家の周りに居るときの記録は残っているの。そんな中途半端な壊れ方って、ある?」
 由佳の言葉に、私は母と顔を見合わせた。

  * * *

 母の入院は長引いていた。
「回復は難しいかも知れません」
 主治医からそう告げられたのは入院の一年後。自宅で看取るかと聞かれ、私は母を実家に連れ帰った。
 私は介護休職の手続きをして、実家で暮らすようになった。眠ってばかりいる母は、離乳食のような食事ですら食べられなくなっていて、ほとんど意識もなくなっていたのに、ある日、急にしっかりした声で言った。
「昨日ね、ロッキーが来たのよ。いろいろお話をしてくれてね」
 せん妄状態という言葉が脳裏に浮かぶが、母の目には生気が宿っていた。
 母が逝ったのはその夜だった。深夜に医者がやってきて、母の死を宣告する。享年八十五歳。

「ロッキーがいるの」
 翌朝、母のいる部屋で、由佳が黄色い輝点の浮かぶスマホ画面を見せた。
「どこ?」
 由佳が掛け布団の端を持ち上げる。そこには母の猫がいた。触ってみると身体はすでに硬直している。
「タグがまだ機能してる」
 スマホを近づけ、移動履歴を確認する由佳。
「どうしたの?」
 奇妙な表情の由佳に、私は声をかけた。
「データではずっと、この部屋にいたみたい。それに、とっくに電池切れになっているはずなのに」
 ふと思った。ロッキーは私たちとは別の時間を生きていたのではないか。
 母と一緒にいる時だけ、ロッキーの時間は流れる。そうやってロッキーは、母の最期まで寄り添ってくれたのではないか。
 家に来たときから二十七年が経過していた。そこから失踪していた期間を引くとどれほどの時間になるだろう。
「一緒に散骨しましょう」
 私は由佳に声をかけた。