「カルタゴ:消えた商人の帝国(第13回)」服部伸六

「カルタゴ:消えた商人の帝国(第13回)」服部伸六

VII カルタゴの教訓
   ●差別のない世界へ向けて
「あとがき」に代えて

VII カルタゴの教訓

     差別のない世界へ向けて
 以上、私はカルタゴが不当にも歴史から消されている事実にふれて、人種偏見と差別について、あれこれと考えて来た。というのもそれは、このような偏った考えが地上から退潮しつつある現代という時点で、未来を予想するための参考になるだろうと考えたからにほかならない。そこで、もう一度歴史の縦糸をたどってみることにしよう。カルタゴが亡びてからの地中海世界にはじまって、21世紀をまえにした現在までの海を中心とした歴史の流れである。
 カルタゴの民のまえから姿を消した海は、しかし、次の登場者の出現を待っていた。こうして「ティール人の海」は「ローマ人の海」になったが、それも長くはつづかず、紀元六世紀にはヴェネツィア人が地中海の主役となった。だが、ヴェネツィアにも衰亡の時が訪れると、ヴェネツィアから亡ぼされたはずのゼノヴァの海運業者と銀行家が避難先のリスボンで活路を見出した。イベリア人の海外発展に資金援助をする金主となったのだ。こうして大航海時代が開幕した。
 コロンブスの新大陸発見は新時代開幕の合図となった。西ヨーロッパで迫害を受けた新教徒たちは大挙してアメリカに移り、「黒い積み荷」といわれて、人為的民族移動を強いられた黒人奴隷の安い労働を土台にして綿花の大量増産にはげんだのである。イギリスのマンチェスターを中心に織物業の革命が起ったのと同時であった。こうして産業革命 (工業革命) の中核ができ上がったのである。それまで、東地中海を渡って来ていたインドの物資は競争力を失ったから、ヴェネツィアの没落は決定的となったわけである。
 かくて、地中海を通しての交易の道はその重要性を失い、大西洋時代が幕をひらいた。ヴェネツィアが観光地と古代の博物館に転落したのはその帰結だった。
 スペインがその経済政策を誤って没落すると、それに代って大西洋時代の利益を手中にしたのはイギリスとオランダで、遅れ馳せにフランスが参加した。だが、その後400年を経て、旧大陸が内紛に明け暮れて戦争に疲れていたとき、二度の大戦の帰趨を決したのは新大陸の主人公だった。アメリカの生産力は世界を圧して、西ヨーロッパの戦後の復興に力を貸すまでになった。英語はフランス語を圧して第一の世界語に昇格した。
 そのとき工業力のエネルギーである石油が最大の重要物資となった。その石油を武器にして斜陽のアラブの国ぐにの鼻息が荒くなったとき、西ヨーロッパにはユーロペシミズムの暗い影がさまよい始めた。「このままで行けばフランスはヴェネツィアの二の舞いとなり、ただの観光地として残ることになるかもしれない」(ミッテランの経済顧問ジャック・アタリの言葉) との嘆きの声が聞かれるようになった。 
 このとき若々しい活気をみなぎらしているのが、太平洋を取り巻いている国ぐにである。日本の大平首相が言い出した「環太平洋圏」という概念が指している地域である。

 「ダイナミズムと技術革新の面でのナンバーワン日本のほかに、「NICS」といわれる五つの新興工業国 (韓国、台湾、ホンコン、シンガポール、メキシコ) を含む太平洋圏には、また南北アメリカ、アジア、それにオーストラリアの植物、鉱物、あるいはエネルギー資源の巨大な予備をもつ国ぐにがあり、かつアセアン諸国のように、十年来めざましい成長をとげつつある国ぐにが含まれている」

と、フランスの「太平洋研究所」が出版している「世界の新しい中心、太平洋」(Institut du pacifique : 《Le pacifique “Nouveau centre du monde” 》Berger-Levrault/Boréal Express, 1983) に述べられている。これにソ連と中国を加えると、太平洋圏の役者が出揃うことになる。
 新しい世界の中心、太平洋圏の見取り図をみると、今まで述べて来た人種差別という概念は、色あせてすでに過去の遺物であり、博物館行きとなるべきものであることが改めて痛感させられるのである。
 1984年の春、慶應義塾で行われた「国際シンポジウム」で、韓国の産業開発研究院会長朴忠勲[パク・チュンフン]氏は次のように力説した。

 「演説を締め括るにあたり、私はもう一度、次のことを強調したいと思います。すなわち世界は転換期にさしかかっており、アジア・太平洋地域が新しい時代の指導権をとることは確かであります。われわれはアジア・太平洋とは何かを再発見し、我々の協力を緊密にすべきであります。」(「三田評論」、1984年3月号)

 カルタゴの「教訓」があるとすれば、それは何であろうか。古代の海洋帝国の存在は一過性のアクシデントにすぎなかったのであろうか。それとも、すべての人間社会に通用する警告にみちた教訓の歴史だったのだろうか。
 ひょっとするとそれは、いま貿易の黒字を抱えて世界中から袋だたきに逢っている日本にとっての教訓であるかもしれない。西欧で、なかでも特にアメリカで「デレンダ・エスト・ヤパーニア」と議会で演説する議員を登場させてはならない、ということではないだろうか。どんなに正義があり、理があったとしても、ローマの元老院で老カトオが叫んだスローガンを掲げさせてはならない、ということである。
 幸い、去る五月のトウキョウ・サミットから戻ったレーガン米大統領は上機嫌で、「ただいまスピーチ」という、たぶんテレビ放送の中で、

 「日本では東と西が本当にめぐり合って、美と文化と精力と企業精神にあふれた国を作り上げている。いまや自由な人々の利益に西も東も、南も北もない。どういう文化に属そうと、自由な人々にとって平和と人権と地球上すべての人の福祉こそが共通の利益である」

と語ったと、日本の中央紙の隅っこに出ていた。これが、あくまでレーガンの本音であることを望みたいものだ。

  「あとがき」に代えて

 歴史好きの一介の老書生の私、つまり歴史物の消費者であった私が一転して歴史物の生産者になったのです。しかも、こともあろうに。遥かに遠い地中海の、3000年も前の「海の帝国」カルタゴの歴史に取組んだのですから、無謀といえば無謀の極みかもしれません。
 もっとも、私には先に『黒人売買の歴史』という黒人奴隷の歴史を扱った史書があるにはありますが、この方は比較的最近の出来事でもあったし、謎の部分は少なかったので、割合と書き易かったといえますが、カルタゴの歴史となると疑問の部分が多すぎて、解釈の仕方いかんでは様相がまったく異なってくるという危険が各所に待ち構えているという状態でした。何しろ解釈の基盤となるべき文献資料が少ない上、あったとしても政治上あるいは文化上の偏見が先入観となっているので、そのままでは歴史上の真実を歪めてしまう恐れがあること、また考古学上の発見は最近はじまったばかりでまだその全貌を読みとるにはほど遠いということもあり、真実の確定はまだまだ先のことになりそうです。
 そこで、読者は本書を一読して、おそらく隔靴掻痒の感を抱かれたに違いないと私は想像することができます。
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 一例をあげてみます。カルタゴは紀元前五世紀の時点で、古代世界でもっとも繁栄した都市国家であったとの証言 (トゥキュディデス) があります。しかし、この場合「繁栄」とは何を指すのでしょうか。それが経済活動を指すとすれば、地中海世界の各地から多くの商人たちが群がり集まっていた港の賑いを想い描くことができるでしょう。おそらくその時点で、さまざまな異国人が、それぞれの思惑を胸に抱いてカルタゴの市場に集まって来ただろうと想像できます。その中には、商人や船乗りたちにまぎれて、傭兵になり、致富のチャンスを摑もうという身なりの卑しい若ものたちもいたに違いありません。それぞれの個人的な人間くさいドラマを抱えた人たちなのです。そういうことは、現在私たちの手に入る資料としては一切残っていないのです。
 そういう経済活動の記録が残っていないばかりでなく、経済活動の成果である物証、すなわち、金銀財宝と呼ぶべきものも、墓場から出て来た僅かの例外を除いて残っていないのです。古代の富のシンボルであった財宝はどこかに消え失せてしまったのです。ローマの兵士たちが略奪した戦利品のなかに、あるいはあったかも知れませんが、それらは跡形もなく離散してしまっているし、リビアの王たちに分け与えたと記録に残っている黄金製の器物も発見することは出来ないということです。
 カルタゴ人の富を実証する物は、テュニスのバルドオ美術館などで見ることのできる墓地からの発掘物につきるといえるでしょう。カルタゴ人は死後の再生を信じていたから、死者の街にも実生活と同じものを埋めたとしても、地上にあった生者たちの街は人間によって破壊され、時の風化によって消え失せてしまっています。
 僅かに残っている化粧漆喰の破片や、壁の断片や、石碑の浮彫などを頼りにかつての繁栄した街区をどうやって想像することができるでしょう。エジプトのファラオたちが建てた神殿跡や、ローマ人の、たとえばレバノンのベッカ高原にあるような大神殿は何ひとつ残ってはいないのです。
 カルタゴの街中にあったはずの壮大なフレスコ画を伴なった宮殿や、エシュムーン神殿の柱列の壮麗さなどは、フローベルの小説を読んで想像をたくましゅうする以外に方法はないのです。
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 しかし、そのフローベルの描写でさえも眉ツバ物が多いことは当然のことです。たとえば次の有名な個所についてみてみましょう。トペテにあったという青銅のモロクの神に幼児を献納する場面です。

 「青銅の腕はことを急いでいた。止まるところがなかった。子供が献じられると、モロクの神官は市民たちの罪を負わせるためにその子の上に掌を差しのばした。
 入口の縁に達した犠牲[いけにえ]は赤くなった台の上で一滴の水滴のように消えて行き、大きな炎のなかから一条の白煙が立ち上った。
 しかしそれでも、神の食欲は鎮まるところがなかった。もっと呉れというようにみえた。そこで、なおも犠牲を増すため太い鎖でつないでその青銅の腕の中につめ込むのだった······そういうことが、果しもなく、夕方まで続けられた。すると内部の火の色は暗い色を増すのだった。そのとき焼ける肉が眼にとまった。髪や、手足や、体全体を見ることができたと思うものさえいるのだった。」(筆者訳)

 フローベルのこの個所は「シチリアのディドロス」と呼ばれているローマの歴史家の史書からヒントを得たものです。このローマの歴史家は、紀元前310年のアガトクレスのカルタゴ攻略の際、敗戦を与えた神の怒りを慰めるためカルタゴの有力者たちが自分自身の子供をバール・ハンモンの神に捧げた史実にふれて次のように書いています。

 「彼ら (カルタゴ人) は、その過誤を改めるため (自分たちの実子を差出す代りに、奴隷の子や動物を犠牲としていた誤りのこと) 急いで、有力者の家族のなかから選んだ200人の子供を公共の犠牲とするよう布告を出した。非難された市民たちは挙[こぞ]ってその子供たちを差し出したので、その数は300に及んだ。子供たちはかくて犠牲とされたのである。そこにはクロノス (これはカルタゴ人のバール・ハンモン神をローマ風に直したもの) の青銅製の像が立っており、その傾斜した手は地上に差し伸ばされていて、その手の上に乗せられた子供は火の燃えさかる深淵へ向けて滑り落ちる仕掛けになっていた。」

 ディオドロスは右のように書いていますが、青銅製のモロク神があったという記述をしているのは彼のほかには誰ひとりいないということです。カルタゴに対するローマの敵意が高揚の極に達したポエニ戦役の記録にも青銅神像の存在は一言もふれられてはいないし、また地中から掘り出されてもいないのです。
 フローベルは、ラテン作家のなかで、ただ一人だけ青銅のモロク神像の存在を記しているディオドロスの史書から想を得たことを批評家サント・ブーヴ宛の手紙に記しています。この手紙をみると、サント・ブーヴはフローベルの作品に厳しいクレームをつけていたことが判ります。十九世紀のフランスでもカルタゴをめぐる歴史に論議があったことが読みとれますが、しかし、それらの細部にわたることだけでそれ以上には発展しなかったようです。
 現在では、モロクという神の実在についてさえも疑わしいという説をとなえる人もあるくらいで、従来の歴史観は根本から見直されるという傾向すらみられます。テュニジアの国立考古学研究所の副所長だったサラ=エディヌ・トラトリ氏は、その著書『ポエニ時代のカルタゴ La Carthage punique 』のなかで、モロクというのは、もともとセム語の表記法によると MLK と子音ばかりで表記されていたものだから、Malek とも読めるはずだと言っています。マレクだと「王」という意味で陰惨な神のイメージはなくなるのだというのです。だとすると、イスラエルのヒムノンの谷のトペテの幼児犠牲の祭壇が捧げられたのもモロクではなく、メレクになります。メレクは王であり、直ちにバール神 (王あるいは殿様) につながります。それはそれで筋が通ると私は思います。
 してみると、誰かが故意にモロクの名をつくり出したことになります。しかし、この話はこの辺で止めることにします。こういうことに深入りしたら切りがありません。
 以上、私は読者にとって、いささか煩わしいと思われる細部にまで立ち入りましたが、それは、カルタゴ人に関しての情報が、いかに限られたもので頼りないものかを具体的に分ってもらいたかったからのことです。
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 私はさきに、死者たちの街のほかにはカルタゴの富を伺わせるものはないと書きましたが、それは富だけではなく、彼らの美意識など、その文化の高さを伺わせるものも含めたつもりでした。つまり物質的な富だけではなく精神的な富も含めた美術品を指すものです。
 そういう美術品のいくつかが、むかしのカルタゴの街の北側の台地にひろがっていた墓地から出て来ました。ドラットルというフランス人の神父が今世紀のはじめにサント・モニックの墓地で発掘した石棺は深い井戸の奥から出て来た石棺の蓋に残っていた二つの浮彫です。一つは髯を生やしたバール神の神官の像で、いまルーブル博物館て見ることが出来ます。もう一つは「タニトの女神官」と呼ばれている、美しい女性像です。右手には鳩を持ち、左手には捧げ物らしい器物を持っていますが、この像の特徴は下半身が鳥の羽毛て覆われている点です。ドラットルが発見したあとでこれを見たゴクレェルは手紙のなかで書いています。

 「鳩をもった女神官の棺は私を夢中にさせました。あれは傑作です。死者が眠る棺の蓋に、静かで且つおごそかではあるが、しかし生き生きと眼を見はる若い女性の像は不思議な魅惑にみちています········像は全体が着色され金箔が張られています。この傑作の発見はカルタゴの考古学的発掘にとって画期的なもので、古代美術の歴史の中で重要なもであります。」

 カルタゴの美術はギリシアのそれに比べれば三流三流だと一般に信じられていたのですが、この二つの像や、同時に出て来たスカラベなどを見ると、世上伝えられるように、カルタゴの美術工芸はギリシアの亜流ではなくエジプト美術の本流を継ぐものだと、最近は考えられるようになりました。従ってこの問題もまだ謎に包まれているのです。
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 最後に、もう一つ疑間をつけ加えますと、ハンニバルの人物像の問題があります。
 今までハンニバルは優れた戦略家として英雄の列に加えられてきました。戦史や伝記もそういう観点からハンニバル像を描いています。だが、私には納得できないところが沢山あります。
 カンナエの大勝利のあとで、なぜ直ちにローマを攻めなかったのでしょうか。戦費をまかなうだけの財政の余裕がなかったからだ、そのため外交的手段でローマを孤立に追い込めてローマの力の弱るのを待っていたのだと、と私は本文のなかで書いていますが、果してそれだけだったのでしょうか。
 また、アフリカヘ帰ってからは、父のハミルカル・バルカの時代からカルタゴの遥か南にあるハドリュメートに造られていた砦に戻って、オリーヴの生産増強につとめていますが、そのときの彼の心境はどういうものだったのでしょうか。オリーヴ作りというと、この植物が地中海の経済に占めていた重要な役割が私たち日本人には理解できないので、何か閑人の「ひまつぶし」か、あるいは世に容れられぬ恨みをまぎらわすための閑事業に受取られる恐れがありますが、これはそうではなくて、国家再興の基本的な大事業であったかも知れないのです。というのは、カルタゴはその最盛期にはギリシアをはじめ地中海の岸辺の住民向けに麦やオリーヴ油を輸出していたと伝えられているからです。カルタゴ沖の旧商港跡が確認 (157頁参照=カルタゴ港の復元図) されてから、その貨物集積所の広大さが明らかになりました。おそらくこの岸壁の広場に小麦の袋や、ワインやオリーヴ油を入れたアムフォーラが並べられていたことでしょう。その輸出産品をつくるためハンニバルは新しくカルタゴの勢力圏になった南方の領地で輸出作物の増産に取組んだのかもしれません。これも記録が残っていないので証明することはできません。
 敗戦の賠償の支払いに涙に暮れている商人貴族を蔑すんでカラカラと笑ったというハンニバルの逸話だけでは、彼の人物像を構築するには、何としても材料が足りないようです。
 しかし、フランソフ・デクレはその著書、『カルタゴ・海の帝国』の終りに次のように書いています。

 「この商人の民、企業と利潤にきびしかったこの民、戦争という職業にいささかの魅力も感ぜず戦争には傭兵を使用したこの民の数奇な運命を思わずにはいられない。にもかかわず、この民は、その歴史の終りにあたり、ローマの野蛮な独裁に対して反抗し――もっともこの反撃は遅きにすぎたものではあったが――高貴な価値の模範、いやもっと言えば、人間の尊厳というものの模範を示したのである。じじつ、あのとき、カルタゴ人はただ単に商売上の利益を護るためではなく、ひとつの理念のために戦ったのである。すなわち、自由と、そしていわば高貴な誠実性のためだった。しかし、この理想と呼んで差支えないものを護持するための執念は無に帰することになってしまった。そこで、ここでティツス・リヴィウスがカルタゴ全人民の名誉ある代表としてのハンニバルに与えた評価を想い出してみる要があるだろう。『彼 (ハンニバル) は栄光の時にあってよりも不運に際してもっとも賞讃に価したのではないかと思わざるを得ない』と」。

 ハンニバルは、おそらく「カルタゴ精神」を守るために戦いの一生を送ったと考えるのが、もっとも妥当な判断だろうと思われます。
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 地中海の「不沈母艦」であったカルタゴは、アフリカの植民地だけでなく、シチリアにも、サルディニアにも、南スペインにも、この「カルタゴ精神」をひろめていたに違いありません。母艦は沈んでしまったが、その文化の痕跡は長らく生きつづけている筈です。風俗習慣だけでなく自由な発想の源泉として残されたに違いありません。若いころカルタゴの自由放埒[ほうらつ]な空気になじんだ聖オーガスチヌスの思想形成にも、またそのあと、1332年にテュニスに生れ、アラブ世界最高の哲学者・社会学者・歴史家となった高名なイブン・ハルドゥーンにもカルタゴ精神の息吹きが読みとれるのでなかろうかと、私は考えます。
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 「こんにち、歴史は、かつてない昂まりをみせる責任のまえに立たされている。歴史はこれまでも、その在り方と変化とを通じて、具体的な社会条件に左右されることを止めたことはない。『歴史は時代の娘[こ]である。』歴史が揺れ動くことは、とりも直さず、われわれの心と精神との不安動揺なのである」と、フランスの歴史家フェルナン・ブローデルは書いています。アナル派史学のリーダーとして名高いこの学者は「1950年における歴史の位置」という、彼がコレージュ・ド・フランスの教授となった初講義の冒頭でこうのべたのであります。1950年といえば、第二次世界大戦が終息してから五年後のことです。ブローデルの心の中には、なお大戦の悲惨な想い出が生なましかったに違いありません。
 カルタゴの歴史は、まだ揺れ動いていると私は考えます。考古学的な発掘から今後も新しい物証が出土して、「カルタゴ精神」の実態が明らかになるだろうと考えます。
 私がこの本の原稿を書き終えて社会思想社に渡したあとで、もと在テュニジアの大使だった田村豊氏から五冊の部厚い「カイユ・ド・ビルサ」という出版物を頂きました。フランスの国立印刷所で数年にわたって発行されて来ている豪華な限定本です。田村さんが自分には使い切れないからどうぞ利用して呉れ、と言って私に長期貸出ししてくれたものです。この中にはテュニスの博物館が所蔵している発掘物の細詳な図版と解説がいっぱいつまっています。
 天がもし私に、数十年とは欲ばらないにしても、数年の寿命を与えてくれるなら、おそらく私はこの「カルタゴの歴史」の続篇を書くことができるようになることを祈りながら、私は「あとがき」の最後を締めくくることに致します。

1986年12月8日の朝

※本書に写真を掲載するにあたっては、少なからず在日チュニジア大使館にご協力いただきました。

著者略歴
服部伸六 (はっとり しんろく)
1913年12月8日 宮崎県串間市生れ。慶應義塾大学仏文科卒。詩人・評論家。
1965~78年、アフリカ、中東、フランス等に13年間滞在。在コートジボアール共和国大使館、在レバノン大使館、在中央アフリカ共和国大使館(臨時代理大使)等を歴任。著書に『服部伸六詩集』(宝文館出版)、『黒人売買の歴史』(たいまつ社)、詩集『パリの夢アフリカの夢』(飯塚書店)、『カイエ・ド・コニャック』(現代企画室)、訳書にブルトン/エリュアール『処女懐胎』(思潮社)、『アラゴン選集』全3巻(共訳、飯塚書店)、ルネ・デュモン『飢餓の証人』(三一書房)、『脱集団化へ向かう中国』(社会思想社)、ギュヴィック『詩を生きる』(青山館)ほか。

現代教養文庫 1194 カルタゴ
1987年3月30日 初版第1刷発行
著 者 服部伸六
発行者 小森田一記
発行所 株式会社 社会思想社

©Shinroku Hattori 1987 Printed in Japan

[カルタゴ 第13回 終]